加太邦憲
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日本政治家加太 邦憲かぶと くにのり
明治41年9月撮影
生年月日嘉永2年5月19日
1849年7月8日
出生地伊勢国桑名郡桑名城内外堀
三重県桑名市外堀)
没年月日 (1929-12-04) 1929年12月4日(80歳没)
死没地東京府東京市牛込区北町
東京都新宿区北町)
出身校司法省法学校卒業
前職大阪控訴院
所属政党研究会
称号贈従三位
勲二等瑞宝章
配偶者加太歌子(鵜飼貴良次女)
貴族院勅選議員
在任期間1910年12月27日 - 1929年12月4日
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加太 邦憲(かぶと くにのり、嘉永2年5月19日1849年7月8日)- 昭和4年(1929年12月4日)は戦前日本の司法官僚、政治家。桑名藩士、大津始審裁判所長、京都始審裁判所長、大阪控訴院長、貴族院勅選議員。初名は三治郎、後に縫殿介。実名は孝基。号は吉甫、白鷹。
概要

幕末桑名藩士として生まれた。禁門の変後、桑名藩の京都警備に当たったが、この時フランス兵学を学んだことを契機として、洋学を志した。東京に遊学し、村上英俊私塾、大学南校等を経て司法省明法寮に入学し、ボアソナード等に最新のフランス法を学び、第1期生として卒業した。

卒業後しばらく東京法学校に留まった後、フランスドイツに留学し、帰国後大津始審裁判所長、京都始審裁判所長、大阪控訴院長を歴任した。

眼病のため退職後、貴族院議員に勅選され、研究会、維新史料編纂会等で活動した。
生涯
桑名時代

嘉永2年(1849年)5月19日、伊勢国桑名城内外堀(三重県桑名市外堀)に、桑名藩士加太喜内孝喜の三男として生まれた[1]。誕生間もない嘉永6年(1853年)にはペリー来航によって幕末の動乱へと突入することとなり、安政元年(1854年)1月父孝喜も桑名藩兵として江戸洲崎の警備に当たった[2]

また、幕末の桑名は多くの天災にも見舞われ、安政元年6月14日の伊賀上野地震では家の北側の板屋根が崩壊した[3]、11月4日には父青木市左衛門に手習い中安政東海地震に遭遇した[4]万延元年(1860年)6月7日、祖父母百日忌の翌日、暴風雨で赤須賀村の堤防決壊のため萱町法盛寺に避難し、屋敷は床上浸水の被害を受けた[5]

安政2年(1855年)、隣町の大塚晩香に『唐詩選』『三体詩』を習い、安政3年(1856年)夏より晩香私塾で[6]秋山断小山正武、町田鎌五郎と机を並べた[7]。安政4年(1857年)1月藩校立教館にも入学し、早朝私塾、午後偶に藩校に出席する生活を送った[6]

幼少時は水泳、遊漁、山狩を好んだ[8]。また、写書を好み、11歳で『東国太平記』部分、12歳で『豊臣武鑑』、13歳で『家忠日記』、14歳で『三河後風土記』部分、「白鹿洞書院掲示」を写した[9]。15歳頃より杉山氏に甲州流軍学を学んだ[10]。15歳より新陰流剣術、風伝流槍術、渡辺流砲術を学び、剣術、槍術で師範の免許を得た[11]
京都勤務

親藩桑名藩は幕府との繋がりから藩主松平定敬京都所司代に任命され、父孝喜や叔父青木市左衛門は上京して京都警備に当たり、元治元年(1864年)8月の禁門の変に遭遇する。10月、京都の治安が回復を見ると、父に戦跡が消えないうちに京都を見学するよう呼び出された[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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