加古町・住吉町_(広島市)
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 中国地方 > 広島県 > 広島市 > 中区 (広島市) > 加古町・住吉町 (広島市)加古町に所在する複合文化施設・アステールプラザ

加古町(かこまち)、住吉町(すみよしちょう)は、広島県広島市中区の町名である。元安川本川に挟まれたデルタにおいて、北の中島町と南の吉島地区の間に位置する。
概要と歴史広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 広島築城時に陸地であったのは現在の加古町のごく一部であり、その後藩政期に「水主町新開」が造成されたことが示されている。寛永年間(1624年?1645年)の広島城下の地図 / 図中「舩入」の北に「御舩作事部屋」が所在していたことが示されている。1644年頃の広島城下の地図 / 現在の加古町付近は「加子町」「侍町」とあり、水主や武士が集住する町であったことを示している。1930年頃の広島市の地図 / 当時、広島県庁が水主町(加古町)に所在していたことが記されている。1945年被爆後の広島の航空写真 / 旧水主町の町域一帯が壊滅し白くみえるのがわかる。
藩政期

この2町は第二次世界大戦後の町名変更まで「水主町」(かこまち)として1つの町にまとめられており、旧町名は広島藩の水軍要員として編成された水夫(水主/かこ)が集住していたことに由来する(加子町とも)。水主町は太田川上流の芸北地域と広島湾を結ぶ水運の分岐点として物資の集散地の位置を占めた町人町・中島組に隣接していたことから、藩の船屋敷・船作事所が設けられた。第7代藩主浅野重晟は別邸として水主町屋敷・与楽園を築いた。

藩政期を通じてこの地区はほぼ全域に町割がしかれて市街地化し、承応年間(17世紀後半)の洪水以降は南に向かって広島湾埋め立てられ「水主町新開」となり、さらに「吉島新開」(現在の吉島地区)が開かれ「葭島」(吉島)と陸続きとなった。
近代

明治期に入ってこの町には1877年公立広島病院(県立広島病院の前身)が設置、翌78年広島県庁舎が移転してきた。両者はともに原爆被災までこの町に所在したため、隣の中島新町に一時市役所が置かれていたこともあわせ、戦前期における地方行政の中心地という様相を呈した(また広島監獄(現・広島刑務所)も1888年に吉島に移転するまで水主町に置かれていた)。古い武家町としての歴史と、また多くの役所・公共機関が所在していたことから、この町は戦前の広島では格式ある屋敷町として知られていた。
原爆被災から現在まで

1945年8月6日の原爆投下に際しては爆心地から1km前後という至近距離にあったため、街並みや施設は一瞬のうちに倒壊炎上し、当時約2,100人とされる町民はもちろん、当日水主町での建物疎開作業のため動員されていた中学高女の生徒からも多数の犠牲者を出した。水主町にあった市長公舎にいた当時の広島市市長粟屋仙吉も即死している。戦後、県庁はかつて陸軍兵器補給廠が存在していた霞町に移転(その後現在地の基町(現・中区)に移転)したためこの町は県政の中枢としての位置を失った(県立病院も宇品地区(現・南区)へと移転)が、政令市移行後に広島厚生年金会館(現・広島市文化交流会館)やアステールプラザなど文化施設が建設され、市民の文化活動の拠点としての役割を果たしている。
町名とその由来

1965年4月の町名変更によって旧町名である水主町の北半は加古町(一部は中島町に編入)、南半は住吉町に分割された。

加古町 - 旧町名である水主町に由来するが、「かこ」が難読であるため字を変えたといわれる。しかし一部に「水主町」の名を残す店舗などが存在している。

住吉町 - 水主町新開に建立された住吉神社に由来する。町域には旧吉島町の一部も含まれる。

現在の主要施設広島市文化交流会館

広島市文化交流会館(加古町) - 1985年建設。かつての「広島厚生年金会館」を改称。

アステールプラザ(加古町) - 広島市文化創造センター、広島市中区民文化センター、国際青年会館、広島市立中区図書館の複合施設。

広島市立中島小学校(加古町) - 1897年「中島尋常小学校」として広島県庁敷地の南側に開校(1922年高等科を設置)。「中島国民学校」時代(1941年に改称)に原爆に被災し校舎が壊滅するなど大きな被害を受けるが、戦後焼け跡に復興(1947年現校名に改称)して現在に至る。

万代橋(よろずよばし/加古町) - 元安川に架かる橋で、1916年ドイツ人技師によって当時の県庁の西詰に設計され、「県庁橋」とも呼ばれた。原爆被災時には爆心地から880mの距離に位置しており、その際の熱線でこの橋を渡っていた人と荷車、欄干の影がアスファルトに焼きついていた。欄干が吹き抜けになっていたことで倒壊せず、戦後も長く使用されていたが1980年になって現在の橋に架け替えられた。

中島神崎橋(加古町) - 1984年架橋。橋名の仮名は「中島橋」であったが西側住民が「神崎橋」と主張して譲らず、折衷的な命名になったと言われる。

住吉神社(住吉町) - 1733年の創建で広島藩の船の守護神として信仰された。


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