功名が辻
山内一豊、千代婚礼の地(岐阜市)
作者司馬遼太郎
国日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態新聞連載
初出情報
初出地方紙 1963年10月-1965年10月
刊本情報
出版元文芸春秋新社
出版年月日1965年
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『功名が辻』(こうみょうがつじ)は、司馬遼太郎の歴史小説。1963年(昭和38年)10月から1965年(昭和40年)1月にかけ、各地方紙に連載された[1]。題名「功名が辻」の辻は「十字路、交差点、路上」という意味である。 司馬作品には珍しく、後に良妻賢母の見本ともなった、千代という女性を主人公の1人にした作品となっている。牢人から織田家に仕官し、後に長浜城主、掛川城主を経て土佐藩主となった夫山内一豊の転戦、苦悩、そして出世と、それを支え続けた妻の千代を中心に、合戦を通じて信長、秀吉、家康の3人の天下人が絡んでくる。史実や大河ドラマ『功名が辻』と違って、千代の母が法秀院という設定になっており、作品中では千代自身が縫った小袖のエピソードなども盛り込まれている。 天下へ突き進む織田信長の軍勢の中に、「ぼろぼろ伊右衛門」と呼ばれる山内伊右衛門一豊がいた。岩倉織田氏の家臣であった父を亡くし、仇敵である信長に仕官したそんな一豊のもとに、千代という美しい娘が嫁いできた。婚礼の夜、千代の夢は伊右衛門が一国一城の主となることを約束し、木下藤吉郎秀吉の引きもあって、負傷や苦戦を重ねつつも、千代の励ましもあって少しずつ出世の道を上って行き、信長の家臣ながら与力として秀吉に仕え、後に秀吉の家臣となる。信長の安土城が築かれつつあったある日のこと、京での馬ぞろえを前に、城下で駿馬を売る商人を見かけた一豊は、一旦は諦めたものの、話を聞いた千代は秘蔵の小判を差し出してその馬を手に入れるよう促す。その小判は、伯父である不和市之丞が、夫の大事な時に使うようにと千代に持たせたものだった。一豊は日頃から、手柄を得るために分にそぐわない多くの家臣を(千代の入れ知恵で)抱えていたため自身は貧乏続きであり、そんな自分に妻が秘密でへそくりを隠していた上、金を一方的にあてがわれる事に一時憤慨するが、千代の泣き落としにあって結局金を受け取って馬を買い、その後の京都御馬揃えにて名声を博した。 天正5年(1577年)、一豊は中国攻めにも従軍するが、その間に明智光秀が本能寺で信長を討つ。この知らせを聞いた秀吉は、急いで毛利方と和睦し、その後光秀打倒に走る。後に秀吉は後継者選びで柴田勝家と対立し、勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。この時一豊は伊勢亀山城の包囲で、家臣の一人である五藤吉兵衛を失い、吉兵衛のためにも戦後の石高加増を望むが、加増は微々たるもので、その後一豊は登城もせず引きこもり、牢人したいと言い出すようになる。千代は笑巖という托鉢僧に一豊を説得するように頼み、笑巖は脇差で半ば脅すようにしながら、現実から逃げずに浮世の主人となれと一豊に諭す。結局一豊はその後の小牧・長久手の戦いの後、徳川家康と和睦し、関白となった秀吉から近江長浜城を賜り、二万石取りとなる。その後の地震で一人娘のよねを失い、一時は喪失感に襲われるも、その後再び秀吉について京に入る。その京では千代が手すさびに唐織
概略
あらすじ一豊・千代夫妻と馬の像
しばらくして一豊の京都屋敷に捨て子があり[注 1]、よねを失った夫妻はこの子に拾(後の湘南宗化)と名付けて、後継者にしようとするが、捨て子ということもあって思いとどまり、少年の時に出家させてよねの菩提を弔わせる。また一豊は、初めて異父弟である康豊を連れて秀吉の小田原征伐に従軍して、秀吉の攻めの才覚に舌を巻く。その後小田原の北条氏は降伏し、この地は家康のものとなる。また秀吉は、甥の秀次に関白職を譲るが、秀次の素行の悪さと秀頼の誕生から、秀次は疎まれて高野山で処刑され、妻妾と子供たちは三条河原で死刑にされた。その残酷さや、朝鮮出兵に多くの大名が出向いているさなか[注 2]に、当の大名たちから金を集めての伏見城建設に、千代は秀吉への嫌悪感を募らせる。