力道山
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この項目では、プロレスラーの力道山(人物)について説明しています。2004年に製作された力道山を題材とした映画については「力道山 (映画)」をご覧ください。

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1954年
プロフィール
リングネーム力道山
本名本名:百田 光浩
出生名:金 信洛
ニックネーム日本プロレス界の父
身長176 cm
体重116 kg
誕生日1924年11月14日(諸説あり) 日本統治下朝鮮咸鏡南道洪原郡新豊里
死亡日 (1963-12-15) 1963年12月15日(39歳没) 日本東京都港区
所属日本プロレス
スポーツ歴大相撲
トレーナーボビー・ブランズ
ハロルド坂田
沖識名
デビュー1951年10月28日
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力道山(りきどうざん、本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、出生名:金 信洛(きん しんらく、: ???)、1924年大正13年〉11月14日 - 1963年昭和38年〉12月15日)は、日本男性プロレスラー力士血液型AB型。日本統治下の朝鮮咸鏡南道洪原郡出身。 
生涯
生い立ち

日本統治時代の朝鮮咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で朝鮮人の両親のもとに生まれた。生年月日は1924年11月14日とされるが、この時代の朝鮮半島では出生から時間をおいて役所へ届け出ることが珍しくなく、実際には1年から2年早く生まれていた可能性もある[1]。もとはシルムの選手であったという[2]
力士時代

力道山 光浩

力士時代の力道山
基礎情報
四股名力道山 光浩
本名金 信洛(???)
生年月日1924年11月14日
没年月日 (1963-12-15) 1963年12月15日(39歳没)
出身 日本統治下朝鮮咸鏡南道洪原郡新豊里(龍源村)
身長176 cm
体重116 kg
BMI37.45
所属部屋二所ノ関部屋
得意技突っ張り
右四つ
吊り
上手投げ
成績
現在の番付廃業
最高位西関脇
生涯戦歴135勝82敗15休(23場所)
幕内戦歴75勝54敗15休(11場所)
殊勲賞1回
データ
初土俵1940年5月場所
入幕1946年11月場所
引退1950年9月場所前
引退後プロレスラーに転向
備考
金星2個(東富士1個、照國1個)
2013年2月17日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

二所ノ関部屋に入門し[注 1]1940年5月場所初土俵1946年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場し、優勝した羽黒山に敗れたが[3]優勝旗手となる(最後の優勝旗手)。1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東冨士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞している[4][3]

なお、この年に力道山の生まれた朝鮮半島に韓国北朝鮮が建国されたが、その後も力道山は自分の出自をマスコミに公開しないままであった。1949年5月場所に関脇に昇進するが、場所前に肺臓ジストマに罹患したのが響いて大敗する。一年後関脇に復帰したが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。「民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったため廃業を決意した」という説が良く語られるが、場所別成績の通り、最後の出場場所は関脇で一点の勝ち越しにとどまっており、大関に昇進できるような星は残していない。ただし、幕内出場10場所のうち負け越しは1場所だけ、幕内勝率5割8分1厘は戦後の関脇どまりの力士の中では最高である。同世代の鏡里喜代治栃錦清隆吉葉山潤之輔とも互角に取っており[注 2]、力士を続けていれば大関も期待できる逸材であった。

しかし、力道山は酔うとあたりかまわず暴れることで周囲から疎んじられており、師匠の二所ノ関親方との間にはこのような素行への叱責を受けるだけでなく、金銭問題を含むトラブルを多く起こしていた。これが引退の引き金と考えるのが妥当である[5][注 3]。相撲界から引退した時、百田己之助の戸籍に長男として入籍[注 4]。この頃から対外的には百田に倣い「長崎県出身」と称した。
力士時代の成績

通算成績:135勝82敗15休 勝率.622

幕内成績:75勝54敗15休 勝率.581

現役在位:23場所

幕内在位:11場所

三役在位:6場所(関脇3場所、小結3場所)

三賞:1回

殊勲賞:1回(1948年5月場所)


金星:2個(
東冨士1個、照國1個)

各段優勝

幕下優勝:1回(1944年5月場所)

三段目優勝:1回(1942年1月場所)


場所別成績

力道山 光浩 春場所 夏場所 秋場所
1940年
(昭和15年) x(前相撲)x
1941年
(昭和16年) 西序ノ口20枚目
5–3 西序二段45枚目
6–2 x
1942年
(昭和17年) 東三段目51枚目
優勝
8–0東幕下34枚目
5–3 x
1943年
(昭和18年) 西幕下21枚目
5–3 西幕下12枚目
5–3 x
1944年
(昭和19年) 東幕下13枚目
3–5 東幕下13枚目
優勝
5–0西十両10枚目
7–3 
1945年
(昭和20年) x東十両4枚目
3–4 東十両7枚目
8–2 
1946年
(昭和21年) x国技館改修
により中止西前頭17枚目
9–4 
1947年
(昭和22年) x東前頭8枚目
9–1
旗手 東前頭3枚目
6–5 
1948年
(昭和23年)x東前頭2枚目
8–3
殊★東小結
6–5 
1949年
(昭和24年) 西小結
8–5 西関脇
3–12 西前頭2枚目
8–7

1950年
(昭和25年) 西小結
10–5 西関脇


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