力侍神社
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力侍神社

力侍神社参道
所在地和歌山県和歌山市川辺字稲井61
位置北緯34度15分42.9秒
東経135度15分42.6秒
主祭神天手力男命
猿田彦命
社格等式内社論社・旧村社
創建伝平安時代中期
本殿の様式一間社流造?葺
例祭10月10日
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力侍神社(りきしじんじゃ)は、和歌山県和歌山市川辺に鎮座する神社。鎮座地川辺を始め、上野、島、神波、楠本の総氏神として一帯の信仰を集める。摂社である八王子神社と東西に並立する。『延喜式神名帳』の紀伊国牟婁郡「天手力男神社」の後継社とする説もある(式内社論社)。旧村社

本殿は八王子神社のそれとともに和歌山県の有形文化財(建造物)に指定。境内は九十九王子の一つである川辺王子跡として和歌山県の史跡に指定されている。目次

1 祭神

2 由緒

3 社殿

4 境内社

5 祭祀

6 文化財

6.1 和歌山県指定


7 脚注

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

祭神

天手力男命猿田彦命を祀り[1]、他13神を配祀する。
由緒

社伝によれば、当初は和歌山県田辺市本宮町の大斎原(熊野本宮大社の旧社地)[2]に鎮座していたが、平安時代中期に現社地の東北方である神波(こうなみ)の字桑畑に遷座したのが創祀であると伝える。なお『紀伊続風土記』(以下『続風土記』と略記する)は『紀伊国神名帳』(以下『国帳』と略す)名草郡に見える地祇30社中の「従四位上 雨手力男神」が当神社のことであり、『延喜式神名帳』紀伊国牟婁郡に載せる「天手力男神社」がその前身、また手力男命の神名とその功業から「力士」の社名が生じ、それが転じて「力侍」神社になったもの、と考証しているが[3]、史料的に立証できないために根拠が薄弱であると評されている[4]

社伝によれば、創祀後神波に西隣する上野の八王子神社の鎮座地[5]に遷座、その後江戸時代寛永3年(1626年)3月に神託により八王子神社とともに現在地に遷され、八王子神社は摂社として東側(向かって右側)に並び祀られるようになり[6]、以来川辺、楠本、島、神波の4箇村の産土神とされた。なお『続風土記』によれば、円鏡山山王院という仁和寺真乗院の末寺別当神宮寺として境内に置かれていた(後に廃寺)。

明治6年(1873年)村社に列し、同43年(1910年)に付近一帯の神社を合祀している。なお、旧神波村に当初の鎮座地の遺祠と思われる小祠があったが、これもこの時に合祀されており[7]、同時に九十九王子である中村王子の旧跡とされる楠本の楠本神社、同じく川辺王子の跡とされる上野の八王子社(上野の旧鎮座地に遺存した小祠)も合祀された。
社殿

本殿は一間社流造?葺で和歌山県指定有形文化財(後述「文化財」の節参照)。
境内社
摂社 八王子神社
現在は
天之忍穂耳命五男三女神、八衢彦命、八衢姫命を主祭神に、天児屋根命他11柱を配祀する。上述のようにかつては上野に鎮座しており、『続風土記』はその当時のこととして「寛永記」[8]を引き、弘仁年中(9世紀初葉)の創祀で、川辺、楠本、島、神波、上野、別所、落合の7箇村の産土神とされ、社地15余りを有したが、天正時代の豊臣秀吉による紀州制圧により社地は全て没収、その際に古文書類も紛失したと記す。また『続風土記』自体は「按ずるに当社は「熊野御幸記」[9]に載する所の川辺王子にして、僧心敬が『さゝめこと』の自跋にある八王子の社これなり」と考証している[10]。本殿は本社本殿同様、県指定の有形文化財(後述「文化財」の節参照)。
末社 楠神社
楠大明神を祀り、玉垣内八王子神社の東に鎮座する。もと和歌山市楠本字南ノ口[11]に鎮座し、『国帳』に載せる「従四位上 楠本大神」と見られ[12]、近世には「楠本神社」や「楠本大明神」と称された。延暦5年(786年)に、楠本に棲息していた大蜘蛛を退治した坂上田村麻呂によって創祀されたと伝え、明治6年に無格社とされたが、同43年に遷祀の形で力侍神社に合祀された[7]。因みにこの大蜘蛛について、『紀伊国名所図会』(文化8年〈1811年〉刊の初編。


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