劉邦
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太祖 劉邦
前漢
初代皇帝
漢高祖像
王朝前漢
在位期間高祖5年2月3日 - 高祖12年4月25日
前202年2月28日 - 前195年6月1日
都城長安
姓・諱劉邦
字季(末っ子の意)
諡号高皇帝
廟号高祖[1]→太祖[2]
生年考烈王16年(前247年
/考烈王7年(前256年[注釈 1]
没年高祖12年4月25日
前195年6月1日
劉太公
劉媼
后妃呂雉
陵墓長陵

劉 邦
各種表記
繁体字:劉 邦
簡体字:? 邦
?音:Liu B?ng
注音符号:???? ??
ラテン字:Liu Pang
発音:リィゥ バン
広東語?音:Lau4 Bong1
日本語読み:りゅう ほう
英文:Liu Bang
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劉 邦(りゅう ほう、簡体字中国語: ?邦、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Liu B?ng)は、前漢の初代皇帝

沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後にの都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖(たいそ)、諡号が高皇帝(こうこうてい)であるが、通常は高祖(こうそ)と呼ばれることが多い。
生涯
出生

戦国時代末期にの領域だった泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父の劉太公と母の劉媼の間の男児として誕生した[3]。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。『史記』によれば劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという[4]。また、の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢荀悦漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している[注釈 2]。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである[注釈 3]

その頃の幼馴染に盧綰樊?がおり[5][6]、共に後の反秦活動に参加している。特に盧綰は、盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、2人も幼少時から親しくして育った[7]。中国の主要王朝の創始者としては、後年の朱元璋と並ぶ庶民出身者であるが、家族が次々餓死して一家離散した朱元璋ほどの極貧な生まれではなかったとされる。ただし、中年期までろくな定職も持たずに過ごし[8]、まともな読み書きも身につけないままであった。その一方で、遊び人なりに多くの人に好かれていたことは、蜂起後に彼の大きな財産となっている。
任侠生活

反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。幼い頃の劉邦は、公子である信陵君を慕い、彼の食客だった外黄県令の張耳を訪ねて親交を深めた[9]。その後、魏が秦により滅亡すると、張耳は姓を変えてに忍び込み、劉邦も故郷に戻った。後日、劉邦は帝位についてから大梁を通るたびに信陵君の墓に祭祀を行うことで尊敬を表した[10]。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかしなぜか人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり満席になるので、この店は劉邦のツケ払いの踏み倒しを黙認していたと伝えられる[11]

史記によればある時、劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで始皇帝の行列を見て「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と語ったという[12]。またある時、単父の有力者の呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た[13]。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。そこへ劉邦がやってきて、進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた[14]。あまりの金額に驚いた呂公は、慌てて門まで劉邦を迎え、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた[15]。これが呂雉である。

妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。史記によればある時、呂雉が田の草取りをしていたところ、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることができない」と言い、劉邦は大いに喜んだという[16]。『史記』には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は、漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。
反秦連合へ
陳勝・呉広の乱と挙兵

ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。秦は法も厳しく、人夫が足りなければその引率者が責任を取らされる、とやけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がした。そして、行くあてがないと残った人夫らと共に沼沢へ隠れた。すると噂を聞きつけた者が子分になりたいと次々と集まり、劉邦は小規模な勢力の頭となった。

紀元前209年陳勝・呉広の乱が発生し、反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何曹参が「秦の役人である県令が反乱しても誰も従わない。人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ[17]。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦の元に使者が向かった後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした[18]。劉邦は一計を案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(当時の中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れ、長老らは新たな県令に就く事を求めた[19]。劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退したが、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった[20]。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。


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