劉豫
斉
皇帝
王朝斉
在位期間天会8年9月9日 - 阜昌8年11月18日
(1130年10月12日 - 1138年1月1日)
都城大名府→?京(開封府)
姓・諱劉豫
字彦遊
生年元豊元年(1078年)
没年皇統6年9月11日[1]
(1146年10月18日)
父劉宣
母?氏
后妃銭氏
年号天会 : 1130年
阜昌 : 1130年 - 1137年
劉 豫(りゅう よ)は、中国北宋末の官僚、金朝の傀儡国家である斉(劉斉)の皇帝。字は彦遊。 永静軍阜城県の農民出身。元符3年(1100年)に進士に及第し、宋朝に官僚として仕えた。靖康元年(1126年)、靖康の変により宋は女真族の金軍によって都の開封を制圧され、滅亡する。劉豫は済南府知府に任命され、済南府を守備したが、建炎2年(1128年)に金軍の侵入に対し、降伏する。 当時、金朝は山東・河南方面に広く軍事行動を展開していたが、旧北宋支配下の漢族を直接統治する自信がなく、靖康2年(1127年)に北宋の宰相であった張邦昌を皇帝として、金朝の傀儡国家としての「大楚」を建て、旧北宋の支配地域の間接統治にあたらせようとした。しかし、張邦昌は北宋の最後の皇帝欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝として宋(南宋)を再興することに協力し、後に殺された。 そこで金朝は建炎3年(1129年)3月、劉豫を東平府へ移し、京東西淮南等路安撫使に任じて大名府・開州・徳州・濮州・浜州・博州・棣州・滄州などを治めさせた。建炎4年(1130年)7月、粘没喝(完顔宗翰)の画策により、劉豫を皇帝として傀儡国家を建てることとなり、国号を「斉」、都を大名府とした。劉豫は9月9日に皇帝として即位したが、年号は金朝の正朔を奉じ、天会8年とした。百官を定めた後に東平府に移り、生母の?氏を皇太后、側室の銭氏[2]を皇后となした。11月には阜昌元年と改元し、子の劉麟
略歴
金朝の元帥府使蕭慶
が?京に赴き、劉豫と南宋攻略の相談をした際には、劉豫は宋軍の内情を詳らかに報告したり、宋軍の将軍の内応を図るなどの工作を行うが、劉豫・劉麟父子は実戦面では全く活躍できず、かえって人心を失い、次第に金・宋戦争は膠着状態に陥ったため、金は劉豫の存在価値を低くみるようになっていった。そこへ阜昌8年(1137年)に劉豫の後ろ盾であった粘没喝が失脚したことで、斉不要論が圧倒した。同年、斉はわずか8年で廃止されることとなった。劉豫は蜀王に格下げされ、後に臨?府に移される。皇統3年(1143年)、曹王に封ぜられた。皇統6年(1146年)に没した。
なお、斉の領土は、いったん金朝の支配下に入り、天眷2年(1139年)に南宋に返還されたが、皇統2年(1142年)の紹興の和議で再び正式に金朝領に組み入れられた。
脚注^ 『金史』巻4, 熙宗紀 皇統六年九月戊寅条による。
^ 趙金奴(宋の栄徳帝姫、欽宗の妹で高宗の姉)の侍女。礼法に習熟していた。靖康の変後、劉豫に与えられた。
参考文献
『東洋歴史大辞典 下巻』(1941年、縮刷復刻版、臨川書店、ISBN 4653014728)1029ページ「劉豫」(執筆:松崎壽和)
『東洋史辞典』(京都大学文学部東洋史研究室、東京創元社、1974年、ISBN 4488003109)893ページ「劉豫」
伝記史料
『宋史』巻475 列伝第二百三十四 叛臣上 劉豫伝
『金史』巻77 列伝第十五 劉豫伝
関連項目
靖康の変
関勝 (水滸伝)