劉裕
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武帝 劉裕

初代皇帝

王朝宋
在位期間永初元年6月14日 - 永初3年5月21日
420年7月10日 - 422年6月26日
都城建康
姓・諱劉裕
字徳輿
諡号武皇帝
廟号高祖
生年興寧元年3月17日
363年4月16日
没年永初3年5月21日
422年6月26日
父劉翹
趙安宗
后妃武敬皇后臧氏(追贈)
陵墓初寧陵
年号永初420年 - 422年
※幼名は寄奴
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。宋書巻1本紀第一武帝上中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。南史巻1宋本紀上第一 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。魏書巻97島夷劉裕伝

劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の初代皇帝。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。東晋簒奪した桓玄打倒を契機に地位を築き躍進、外には南燕後秦を滅ぼし、内では五斗米道?縦の反乱を鎮圧し、また政敵の劉毅司馬休之を打倒、東晋内の第一人者としての立場を確立し、恭帝より禅譲を受けた。土断などの経済政策で財政の再建も成し遂げている。一方で政敵の粛清の苛烈さや東晋二帝(安帝・恭帝)の暗殺、いちど奪還した長安洛陽の即時失陥についての批判も受けている。
生涯
出自と幼少・青年期

徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実際に住んでいたのは南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)である。宋書ではの高祖劉邦の異母弟である元王劉交の二十一代の子孫と記されている。東晋の頃は家は代々中級の官吏として郡の太守や県令を歴任していた[1]。曾祖父の武原令・劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移った。

興寧元年(363年)3月17日、劉翹と趙安宗の長男として生まれた。父は下級役人(功曹)であった。生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから産熱で亡くなった。困窮した幼少時代であり、父は幼い劉裕のために乳母を雇う金にも事欠き、養育を放棄されかけたこともあった。見かねた生母の姉・趙氏が代わりに劉裕へ乳を与え、そこから寄奴という幼名がつけられた[2]。なお趙氏の息子である劉懐粛劉懐慎兄弟は後に劉裕の配下の武将として働いている[3]。ただし、敵国で書かれた『魏書』島夷劉裕伝では、本名は「項裕」であり、先祖が誰かも分からず、成りすましで劉姓を勝手に名乗ったワラジ売りであるとしている。その証拠に劉氏系図に劉裕の名はないとまで書いている[4]

父は後妻に蕭文寿を迎え、劉道憐劉道規を産むも、劉裕が幼い時に死去。残された劉裕はわずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てていた。成長したのちには身長七尺六寸で立派な体格を持ち、大志を抱き、こまごまとした礼節にはこだわらなかった。ただし継母にはよく仕え、真面目な孝行息子(孝謹)として評判だったと『宋書』武帝紀上には書かれており、貧しいながらも真面目な生活をしていたようである[5]。しかし、『魏書』島夷劉裕伝では、バクチで財産を使い果たしてしまい、字もほとんど読めずに周囲から呆れられ、借金も返さずすさんだ生活をしていたとしている[6]
成りあがる

劉裕が初めて仕官したのは冠軍将軍孫無終の司馬(副官)としてであった[7]隆安3年(399年)、五斗米道の信者を中心に起こった孫恩の乱において、劉裕は北府軍の劉牢之に請われて配下の参府軍事となり、わずか数十人の部隊で孫恩軍の数千の部隊を破り、自らも長刀を振るって奮戦するなど多くの勝利を挙げた[8]。対孫恩戦で挙げた武功より、建武将軍への昇進を果たす。隆安5年(401年)に再び孫恩らが襲来、建康に攻撃を仕掛けるも叶わず撤退。これを徹底的に追撃して海辺に駆逐した[9]。こういう戦乱のとき、東晋軍の他の武将は軍律を守らずに民衆から略奪して大いにひんしゅくを買ったが、劉裕隊は軍規が厳正で民衆から歓迎されたという[10]

元興元年(402年)、西府軍団を率いる桓玄が首都の救援の名目で建康を制圧した。この際、劉牢之は桓玄に寝返りを考える。劉裕と劉牢之の甥である何無忌はそれを懸命に諌めるも聞き入れられず、結果桓玄が司馬道子らを殺害して実権を握った。後悔した劉牢之は江北に逃れてともに再起を図ろうと劉裕を誘ったが、劉裕は「将軍は強卒十万を率いながらも投降し、全軍の支持を失ったではありませんか!」と述べて拒絶した[11]。劉牢之は孤立して最期には自殺し、劉牢之を失った北府軍団は解体され、劉裕も桓玄の支配に属する。

元興2年(403年)10月、桓玄が安帝司馬徳宗を廃して、国名を楚として自ら皇帝を称した(桓楚)。この際、桓玄は劉裕を高く評価し、酒宴を何度も開いて慇懃丁寧に応対し、贈与品も手厚くした。

元興3年(404年)2月、劉裕は何無忌・劉毅・諸葛長民らを同志として、桓玄打倒のため決起した。劉裕は京口にて桓玄のいとこである桓修を切り捨てると檄を飛ばし、建康に向かった。劉裕軍はわずかに1700名という寡兵であったが、桓玄の繰り出す兵はことごとく破られた。桓玄は舟で長江から江陵に逃走し、幽閉していた安帝を連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉毅・何無忌・劉道規の軍に蹴散らされて江陵も失い、5月には蜀で馮遷に殺された。劉裕は桓玄に追放されていた安帝を復位させた。

桓玄打倒、安帝復位の功績により、劉裕は鎮軍将軍・都督十六州諸軍事とされた。
南燕征伐、五斗米道撃退

劉裕が東晋国内で発言力を高めた一方、桓玄の残党らは北西の後秦に逃げ込んだ。西では成都で?縦が謀反を起こし後蜀を打ち立て、北部では南燕や北魏が勢力を伸ばしていた。南では孫恩より五斗米道軍を引き継いだ盧循が地盤を築きつつあった。これら周辺勢力の討伐が劉裕に求められた。

元興3年(404年)3月、盧循が海伝いで番禺を破り、広州刺史の呉隠之をとらえ、実効支配をなした。ただし盧循が広州の地産品などを献上してきたため、政府は盧循の支配を追認、広州刺史としている。

義熙4年(408年)1月、揚州刺史・録尚書事につけられたが、同年9月、劉敬宣(劉牢之の子)が後蜀討伐に失敗。任命責任を負い、中軍将軍へ降格となる。

義熙5年(409年)2月、南燕軍が東晋との国境付近で大規模な略奪をなし、およそ千世帯が被害に遭った。劉裕は3月に南燕征伐を宣言。多くの者が反対したが、孟昶臧熹謝裕らの後押しを受け、敢行した[12]。7月には南燕首都の広固城を包囲したが、義熙6年(410年)2月の陥落までには半年以上の期間を要した。

同月、劉裕の不在を好機と見た盧循は広州より北上。建康との中間地点にあたる豫章にて何無忌を敗死させた。この事態を受け劉裕は南燕の鮮卑人三千余りを穴埋めにして殺害[13]、急遽南下し、4月に建康入りを果たした。5月、劉裕の制止を振り切り迎撃に出た劉毅が五斗米道軍に敗退。孟昶は「臣が五斗米道どもに付け入る隙を与えてしまった。この危機は臣の罪である」と、薬を仰ぎ自殺した。

劉裕が建康の守りをまともに整えられないうちに、盧循軍は建康に接近。そのまま上陸し攻め立てられれば敗北は必至であったが、盧循が敢えて上陸をせず様子見をする作戦をとったことから、最悪の事態は回避される。その間に劉裕は戦闘可能な兵力を石頭城に集結させ、休息及び装備の再分配をなし、周辺地域より集結してきた救援勢力と合わせて各地に兵力を配した。このとき命令違反をなす将兵は殺すなど、命令の徹底を尽くした。結果、建康防衛に成功。逃亡を開始する盧循軍に対し、追撃。義熙7年(411年)には盧循を討ち果たす。

南燕征伐、盧循討伐の功から、太尉に昇進した[14]
蜀討伐、政敵排除

義熙7年(411年)4月、荊州を任せていた劉道規が病を得、帰還を願い出た。その代任として劉毅が派遣される。ここで劉毅は、自らの派閥に属する謝混や?僧施などの招聘を願い出る。


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