劉衍(りゅう えん、生年不詳 - 125年)は、後漢の皇族。下?恵王。 明帝の子として生まれた。72年(永平15年)、下?王に封じられた。劉衍は容貌にすぐれ、章帝が即位すると、常に側近にあった。建初初年に加冠し、下?国の師傅以下の属官は金帛を賜った。79年(建初4年)、臨淮郡と九江郡の鍾離・当塗・東城・歴陽・全椒の合わせて17県が下?国に編入された。88年(章和2年)3月[1]、下?国に下向した。後に劉衍は病のため意識不明に陥ったが、太子の劉?に罪があって廃位されたため、夫人たちが自分の生んだ子を後嗣に立てようと、相次いで上書した。和帝は彭城王劉恭を下?に派遣して嫡庶を正し、劉衍の子の劉成を立てて太子とした。 125年(延光4年)2月乙亥[2]、劉衍は死去した。 126年(永建元年)、劉成の兄2人と劉衍の孫2人が列侯となった。
経歴
子女
劉?(下?王の太子であったが、罪あって廃位された)
劉成(後嗣、下?貞王)
脚注^ 『後漢書』和帝紀
^ 『後漢書』安帝紀
伝記資料
『後漢書』巻50 列伝第40
Size:2890 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef