劉聡
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昭武帝 劉聡
前趙
第3代皇帝

王朝前趙
在位期間310年 - 318年
姓・諱劉聡
劉載[1]
字玄明
諡号昭武皇帝
廟号烈宗
生年不詳
没年麟嘉3年7月19日
318年8月31日
光文帝
母光献皇后
后妃#后妃参照
陵墓宣光陵
年号光興 : 310年 - 311年
嘉平 : 311年 - 315年
建元 : 315年 - 316年
麟嘉 : 316年 - 318年

劉 聡(りゅう そう)は、五胡十六国時代前趙の第3代皇帝。字は玄明。別名を劉載という[1]新興郡(現在の山西省忻州市)の出身。光文帝劉淵の四男である。母は側室の張夫人(後に光献皇后に追尊された)。兄に劉和劉恭、弟に劉裕・劉隆・劉乂がいる(劉恭以外は異母兄弟)。長兄の劉和を殺害して帝位を継ぐと、八王の乱と異民族の流入により疲弊した西晋を滅ぼし(永嘉の乱)、華北に覇を唱えた。その一方、次第に女色に耽って政治を顧みなくなり、数多くの忠臣を殺害して佞臣を重用した。これにより大いに国力を疲弊させ、漢帝国崩壊の原因を作った。
生涯
魏・晋の時代

幼い頃から聡明で学問を好み、教育に当たっていた博士朱紀からはただ者ではないと称賛された。

14歳になると、経史(経書史書)・諸子百家の学問・孫武呉起の兵法に精通するようになり、これらで暗誦出来ないものは無かった。文章の才能もあり、草書隷書を巧みにこなした。著述した懐詩(自らの心情を表す詩)は100篇を越え、詩経の分類)は50篇を越えた。

15歳の時には武芸を習うようになった。非常に長い腕を持っていた事から特に弓術に秀で、300斤の弓を扱うことが出来た。その逞しさと俊敏さは当時並ぶものがいない程であった。王朝の重臣であり、父劉淵の親友でもある王渾は、劉聡と会うなり大いに喜び、劉淵へ「この子の力は私には測りしれぬ」と語ったという。

20歳になると洛陽へ遊学し、多くの名士と交流を深め、朝廷の第一人者である楽広・張華より大いに評価された。

後に新興郡太守郭頤より招聘を受け、その主簿となった。郭頤からは良将(孝廉を始めとする察挙科目の一つ)として推挙され、驍騎別部司馬に取り立てられた。さらに昇進して右部都尉となると、民百姓をよく慰撫して受け入れ、五部匈奴の豪族で従わないものはいなかった(当時、匈奴の諸部族は魏晋王朝に服属して并州領内に居住しており、左部・右部・南部・北部・中部の五つに分けられていた。これを五部匈奴という)。

やがて朝廷の権力者である河間王司馬?の上表により、赤沙中郎将に任じられた。

当時、父の劉淵は?を統治する成都王司馬穎に仕えていたが、晋国内では政変による功臣粛清が相次いでいたので、劉聡は劉淵もまた司馬穎に殺されるのではないかと不安になった。その為、彼は司馬?の下から離反し、父のいる?へ移った。司馬穎からは右積弩将軍・参前鋒戦事に任じられ、軍の前鋒となって戦争に参与した。

304年8月、右賢王に立てられた。劉淵が司馬穎から離反して郷里に帰還すると、劉聡もこれにつき従った。匈奴の根拠地である左国城に到着すると、劉淵は従祖の劉宣らより上大単于の称号を授かり、劉聡もまた改めて鹿蠡王とされた。
劉淵の時代

同年10月、劉淵が西晋から自立し、漢王朝を樹立した。後に劉聡は撫軍将軍に任じられた。

308年1月、劉淵の命により、劉聡は他の将軍10人と共に各地の対抗勢力の討伐を委ねられ、南へ向かって太行山に拠点を構えた。

5月、劉聡は河東において西晋の将軍北宮純らと争ったが、これに敗れた。

10月、劉淵が皇帝位に即くと、11月に劉聡は車騎大将軍に任じられた。さらに12月には楚王に封じられた。

309年4月頃、征夷大将軍王弥・前鋒都督石勒と共に壷関へ侵攻した。西晋の并州刺史劉?は将軍黄粛・韓述に救援を命じたが、劉聡は西澗において韓述軍を撃破し、その首級を挙げた。石勒もまた封田において黄粛を討ち取った。東海王司馬越淮南内史王曠・将軍施融・曹超を派遣して劉聡を防がせた。劉聡は太行山を越えた所で敵軍と遭遇すると、長平一帯で交戦となったが、これに大勝して施融・曹超を戦死させた。劉聡は遂に屯留長子を攻略し、討ち取るか捕縛した数は1万9000人を越えた。これにより上党郡太守?淳は戦意を喪失し、壷関ごと漢軍に降伏した。

同時期、劉?が新興郡に割拠している匈奴鉄弗部劉虎討伐に向かうと、劉聡はその隙を突いて兵を繰り出し、劉?の本拠地晋陽を襲撃したが、攻略できなかった。

8月、王弥と共に西晋の首都洛陽攻略に向かった。司馬越は平北将軍曹武・宋抽・彭黙らに迎撃させたが、劉聡らはいずれも返り討ちにした。進軍を続けて宜陽まで到ると、平昌公司馬模は将軍淳于定・呂毅らを、長安から劉聡討伐に向かわせたが、劉聡はこれも撃退した。だが、この連勝により劉聡は驕ってしまい、防備を怠るようになった。9月、弘農郡太守垣延が偽って投降を持ち掛けると、劉聡はこれを信用して陣営に迎え入れた。だが、垣延は夜を待って奇襲を仕掛けたので、劉聡は大敗を喫してしまい、軍を帰還させた。劉淵は白服(喪服)を着て劉聡を迎えたという。

10月、王弥・始安王劉曜・汝陰王劉景らと共に精騎5万を率いて再び洛陽攻略に向かい、大司空呼延翼が後詰となった。劉聡らが宜陽まで進出すると、晋朝廷は漢軍を二月前に撃退したばかりであったので、再び襲来するとは思っておらず、大いに震えあがった。劉聡らは河南において晋軍を打ち破ると、大きな抵抗も受けずに洛陽城下まで進軍し、西明門の前に屯営した。その夜、涼州の将軍北宮純は勇士1000人余りを率い、護軍賈胤と共に夜襲を掛けた。大夏門において両軍は交戦となったが、配下の将軍呼延が討ち取られた事により軍は崩れ、劉聡は南方の洛水に軍を後退させた。だが、呼延翼もまた部下の反逆により殺されると、軍は総崩れとなり、劉聡はさらに後退を余儀なくされた。

劉淵は敗戦を聞くと、勅書を出して劉聡に退却を命じた。だが、劉聡は晋軍の脆弱さを主張し、呼延・呼延翼が戦死した程度で退却するべきではないと訴え、攻撃続行を固く要請したので、劉淵はこれを許した。司馬越は籠城して守りを固めた。

劉聡は宣陽門に進駐すると、劉曜は上東門に、王弥は広陽門に、劉景は大夏門そにそれぞれ駐屯した。劉聡は嵩山に登って神に勝利を祈願し、平晋将軍劉・冠軍将軍呼延朗に軍を統率させ、留守を委ねた。

司馬越の参軍孫詢は敵本陣に劉聡が不在であることを知ると、司馬越へ漢軍を奇襲するよう勧めた。司馬越はこれに同意し、参軍孫詢・将軍丘光・楼?らに勇士3000人を与えて攻撃を命じた。孫詢らは宣陽門から出撃して漢軍を撃ち破ると、呼延朗の首級を挙げた。劉聡はこの報告を聞くと急いで戻ったが、劉獅ヘ劉聡に処罰されることを恐れて入水自殺した。

これを受けて王弥は劉聡へ「今やすでに軍に利はありません。洛陽の守備も堅く、輜重部隊は陝にあって糧食は数日と持ちません。殿下は龍驤(龍驤将軍劉曜)と共に平陽に帰還するべきです。糧を準備して兵を養い、後にまた挙兵しましょう。下官(王弥)もまた兵を収め糧を蓄え、?・豫の地で命を待ちます。これが最良と考えます」と進言した。劉聡は以前に命令を拒んでまで洛陽攻撃を継続した手前、決断を下す事が出来なかったが、劉淵が黄門郎傅詢らを派遣して再度帰還を促すと、遂に帰還を決断した。11月、劉曜と共に平陽を帰還した。

12月、大司徒に任じられた。

310年7月、龍驤大将軍劉曜・鎮軍将軍石勒・安北大将軍趙固・平北大将軍王桑と共に河内へ侵攻し、河内郡太守裴整の守る懐城を包囲した。やがて西晋の征虜将軍宋抽・冠軍将軍梁巨が救援に到来するも、石勒・王桑らが長陵において返り討ちにし、河内の民は裴整を捕らえて降伏した。

同月、劉淵は病床に伏すようになると、劉聡は大司馬・大単于・録尚書事に任じられ、後事を託された。平陽の西には単于台(胡人の統治を管轄する官署)が設置され、大単于である劉聡がその長官となった。
劉和殺害

8月、劉淵がこの世を去り、長兄である劉和が帝位を継承した。劉和はもともと猜疑心が強い人物であり、西昌王劉鋭・宗正呼延攸侍中劉乗に唆された事もあり、強大な軍権を掌握していた劉聡と北海王劉乂・魯王劉隆・斉王劉裕ら兄弟の謀反を疑うようになり(劉聡は大単于として10万の胡人を統べる立場にあり、劉乂・劉隆・劉裕は宮中の兵を領していた)、呼延攸らと結託して彼らを排除しようと画策した。

劉和は時機を見図らって決起し、劉鋭・馬景には単于台にいる劉聡の攻撃を命じた。さらに、他の諸将にもそれぞれ劉乂・劉隆・劉裕を攻撃させたが、劉乂攻撃を命じられていた尚書田密と武衛将軍劉?は寝返って劉乂に帰順した。その為、劉乂は彼らと共に関所の守備兵を殺して劉聡の下に奔ると、事前に計画を全て漏らしてしまった。その為、劉聡は防備を整えて劉鋭の大軍を待ち構えた。劉鋭は劉聡の陣に備えがあるのを見ると、軍を返して呼延攸・劉乗らと合流し、劉裕・劉隆の攻撃に参加した。彼らは二日の内に劉裕と劉隆を破り、その首級を挙げた。

その翌日、劉聡は攻勢に転じて西明門を攻撃すると、これを陥落させた。驚いた劉鋭らは南宮に逃げ込んだが、劉聡の前鋒部隊がこれを追いかけた。翌日、劉聡軍は光極西室にいる劉和を捕らえ、妻子ともどもそのまま処刑した。劉乗・劉鋭・呼延攸らもまた捕縛し、市街において晒し首とした。
皇帝即位

劉和の死後、群臣は劉聡に帝位につくよう勧めたが、劉聡自身は側室である張夫人の子であり、末弟の劉乂が正室である単皇后の子であったので、劉聡は彼に位を譲ろうと考えた。だが、劉乂と公卿らは涙を流して劉聡に即位するよう懇願したので、彼は長らく熟考した末に即位を受け入れて「乂(劉乂)と群公は、天下が未だ平定されておらず災いが多いことから、年長である私を推戴した。


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