英武帝 劉継元
北漢
第4代皇帝
王朝北漢
在位期間968年 - 979年
姓・諱劉継元
諡号英武帝
生年不詳
没年淳化2年12月18日
(992年1月25日)
父何氏
母世祖の娘
后妃馬皇后
年号天会 : 968年 - 973年
広運 : 974年 - 979年
劉 継元(りゅう けいげん)は、十国北漢の第4代(最後)の皇帝。 生母は世祖劉旻の娘で、薛サ
生涯
天会12年(968年)、睿宗が崩御し同母異父兄の少主が帝位を継ぐと、継元は太原尹に任じられた。同年、少主が酒宴の席で供奉官の侯霸栄
に刺殺されると、司空の郭無為によって皇帝に推戴された。即位後は遼との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格面も有しており、養母の郭皇后及び世祖の子を殺害し、また反抗する臣下も一族誅滅するなどして、国内は大いに乱れた。974年には広運と改元、翌年には遼によって大漢英武皇帝に冊封されている。
広運6年(979年)、華南全土を支配下におさめた宋は北征を開始、宋の太宗の親征が実施された。遼は北漢へ援軍を送るが宋軍の前に敗退し、継元は宋に投降、ここに北漢は滅亡した。
宋に臣属した後は右衛上将軍に任じられ、彭城郡公に封じられた。太平興国6年(981年)には彭城公に、雍熙3年(986年)には保康軍節度使に任じられている。
淳化2年(992年)に病死すると、中書令が追贈されると共に彭城郡王に追封された。