劉燮(りゅう しょう、泰始6年(470年)- 建元元年5月20日(479年6月25日))は、南朝宋の皇族。晋熙王。明帝劉ケの六男。字は仲綏。 泰始6年(470年)、劉ケと謝修儀のあいだの子として生まれた。4月、劉昶の後を嗣いで、晋熙王に封じられた。元徽元年(473年)2月、使持節・監郢州豫州之西陽司州之義陽二郡諸軍事・征虜将軍・郢州刺史に任じられ、黄門郎王奐
経歴
昇明元年(477年)7月、順帝が即位すると、劉燮は召還されて使持節・都督揚南徐二州諸軍事・撫軍将軍・揚州刺史に任じられた。斉国世子の蕭?が安西長史となり、撫軍将軍府と揚州の事務を代行した。12月、荊州刺史沈攸之が挙兵して反乱を起こすと、蕭?は劉燮を奉じて尋陽の?城に駐屯し、長江の中流域にあって討伐軍の重鎮として諸軍を統率した。昇明2年(478年)1月、沈攸之の乱が鎮圧されると、劉燮は建康に帰った。2月、都督南徐州諸軍事の任を解かれ、都督南豫州諸軍事となり、中軍将軍・開府儀同三司の位を受けた。9月、司徒に上った。建元元年(479年)4月、南朝斉の高帝蕭道成が即位すると、劉燮は司徒の任を解かれ、陰安県侯に降封された。5月、謀反の罪で処刑された。
伝記資料
『宋書』巻72 列伝第32
『南史』巻14 列伝第4