劉汝明
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劉汝明

プロフィール
出生:1895年光緒21年)
死去:1975年民国64年)4月28日
中華民国台湾
出身地: 直隷省河間府献県
職業:軍人
各種表記
繁体字:劉汝明
簡体字:?汝明
?音:Liu R?ming
ラテン字:Liu Ju-ming
和名表記:りゅう じょめい
発音転記:リウ・ルーミン
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劉 汝明(りゅう じょめい)は中華民国の軍人。北京政府国民軍国民政府国民革命軍)に属した。最終階級は陸軍二級上将。馮玉祥配下の「十三太保」[1]の1人としても知られる。は子亮。
事跡

陸建章率いる左路備補軍から軍歴を開始する[2]。当初馮玉祥率いる前営(第2大隊)で前哨(第2中隊)当兵、間もなく第5棚什長[2]。翌年、少尉に任官し、京衛軍左翼第1団第3営第10連排長。1914年2月、京衛軍左翼第1団・第2団が合併して第7師第14旅が編成されると連長に任ぜられる。当時、同連の兵卒に吉鴻昌、李曾志がいた[3]。同年、白朗の鎮圧に動員される[3]

第7師の分裂後は馮玉祥率いる第16混成旅で累進し、1922年(民国11年)に第11師第22旅(長:張之江)第44団(長:劉郁芬)第1営営長になった。5月5日に第1次奉直戦争に呼応した河南督軍趙?率いる毅軍が鄭州で少数部隊を率いていた張之江らを包囲すると、救援のため翌6日、第11師主力とともに河南省へ派遣される。第1営は祭城(現:鄭州市金水区)に展開し、9日深夜、反撃に転じた毅軍6、7個営に包囲されたが持ちこたえた[4]

国民軍が結成されると警衛第1旅(2個団を管轄)旅長に就任し、後に警衛第1旅・第2旅を合併して西北軍暫編陸軍第10師(長:門致中)が編成されると第31旅旅長[5]、翌年師長に昇進した。12月末、西安包囲に失敗した劉鎮華を追って潼関県から河南省?郷県に進出する[6]北伐後の1929年民国18年)、国民革命軍第5路軍総指揮兼第10軍軍長[5]となる。1930年(民国19年)の中原大戦後は山西省に渡り、宋哲元率いる第29軍副軍長に任命された。

1933年(民国22年)、長城抗戦に参加し、第143師師長に任命された。1936年(民国25年)、察哈爾省政府主席を兼任した。日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)、第68軍軍長に就任した。第2集団軍副総司令、総司令代理、総司令を歴任。

日中戦争終結後に、第2集団軍は第4綏靖区、さらに1948年(民国37年)に第8兵団に改編され司令官として国共内戦で戦う。しかし、1949年(民国38年)8月の厦門戦役で劉汝明の軍はついに中国人民解放軍に殲滅されてしまい、劉汝明は台湾へ逃亡した。10月22日に解任後は閑職に追いやられ、1952年退役[7]

1975年(民国64年)4月28日、台湾で死去。享年81。5月10日、二級上将追贈[7]
年譜

1912年(民国元年)春 - 左路備補軍前営前哨(長:
李鳴鐘)当兵、第5棚什長

1913年(民国2年)8月 - 京衛軍左翼第1団第3営第10連排長、少尉

1914年(民国3年)

2月 - 第7師第14旅第27団(長:楊桂堂)第3営第10連連長、上尉[5]

10月 - 第16混成旅第1団第3営第10連連長[5]


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