劉氏
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「劉」の語義については、ウィクショナリーの「劉」の項目をご覧ください。


中国語
中国語 リュウ
繁体字
簡体字 ?

発音記号
標準中国語
漢語?音Liu
国語ローマ字Liu
注音符号????
呉語
上海語ローマ字Lieu1
粤語
粤?Lau4
?南語
?南語白話字Lau

朝鮮語
ハングル?(韓)、?(朝)
漢字
英語Yoo, Yu, Ryu
ベトナム語
ベトナム語L?u

劉氏(りゅうし)は、漢姓の一つ。中国では五大姓の一つ。「劉」の字は、本来「ころす」を意味するが[1]、姓としては地名に由来する。
中国

劉氏(りゅうし)は、中華圏の一つ。現代中国において最も数の多い五大姓(・劉・)の一つに数えられる[2]。歴史的には漢(前漢後漢蜀漢、漢趙(前趙)、五代後漢、十国の北漢南漢)と漢王朝以外の劉宋劉夏国姓である。2020年の第7回中華人民共和国全国人口調査(中国語版)(国勢調査)に基づく姓氏統計によると7229.06万人がいる[3][4]。一方、台湾の2018年の統計では第8位で、743,179人がいる[5]

発音が近い「」などと区別するために、会話では、中華人民共和国では「文刀?」(文に刀の劉)、台湾など繁体字を使う地域では「金刀劉」(金に刀の劉)あるいは「卯金刀劉」(卯金に刀の劉)と説明することがある。「劉邦的劉」(劉邦の劉)と説明することもある(例えば、姓名を答えるとき、「劉尹賢,劉邦的劉,伊尹的尹,聖賢的賢」のように説明する[6])。
起源

祁姓
(中国語版)劉氏。の子孫である。堯の嫡流(堯の嫡男の丹朱、堯の長男の祁監明の子の祁式、堯の九男の祁源明の説がある)の子孫が劉邑に封じられ、以来その地名を氏としたという。

祁姓劉氏からは、夏孔甲の代に龍を御する名手として劉累が現れている。龍の病死後、劉累は家族を伴って魯陽(現在の河南省魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう)。

劉累の子孫からは、龍使いの職業を氏とした御龍氏、周初の「興滅継絶」の時期に堯の故地の唐を氏とした唐氏成王が劉累の子孫を杜に移した杜氏、杜氏の杜伯(中国語版)の子の隰叔(中国語版)がに移り、士師に任じられたことから、官職を氏とした士氏(中国語版)、晋の士会(范武子)が范に封じられ、封地を氏とした范氏の各氏が出た。


姫姓劉氏。周王室の一門である。

成王が曾祖父の季歴の子孫を劉(現在の河南省偃師)に封じたが、後に男子がなく絶えた。後に定王が弟の姫季子をに封じて、季子は康公(中国語版)と諡された。ただし戦国時代になると没落し、子孫は劉氏を称した。漢趙劉殷はその子孫といわれている。

なお、姫姓と祁姓はともに黄帝を祖としている。

前漢

前漢の劉氏の起こりは、の亭長である劉邦が、始皇帝死後の混乱に乗じて台頭し、勢力を拡大、宿敵の項羽を討って前漢)を建てたことに始まる。劉邦については多くの伝承があり、家系については様々な議論があった。司馬貞は「晋の士会の子孫」としているが、これに対して銭大マは「劉太公(劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓がわかるだろうか」と述べている。正史とされる史書の中では『漢書』と『新唐書』が劉邦の出自に言及している。贊曰:《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍,事孔甲,范氏其後也。而大夫范宣子亦曰:「祖自虞以上為陶唐氏,在夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏。」范氏為晉士師,魯文公世奔秦。後歸於晉,其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲於魏。秦滅魏,遷大梁,都於豐,故周??雍齒曰:「豐,故梁徙也。」是以頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。?魏而東,遂為豐公。」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠祀官,則有秦、晉、梁、荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉!由是推之,漢承堯運,コ祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協於火コ,自然之應,得天統矣。(以上、『漢書』高帝紀第一より)劉氏出自祁姓。帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士?。?生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生?,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也。(以上、『新唐書』表第十一より)

以来、劉氏は漢の皇室として繁栄したが、外戚であった王莽孺子嬰より禅譲を受けると、前漢皇室としての劉氏は一旦は滅亡した。


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