劉楚玉
『百美新詠図伝』
続柄孝武帝第一皇女
全名劉楚玉
称号会稽長公主
身位公主→長公主
死去泰始2年(466年)
配偶者何?
父親孝武帝
母親王皇后
テンプレートを表示
劉 楚玉(りゅう そぎょく、? - 466年)は、南朝宋の公主・長公主。孝武帝の娘で劉子業(前廃帝)の同母姉。母は王皇后。山陰公主。会稽長公主。 孝武帝と王皇后のあいだの第1子として生まれた。皇族女性で一番美貌であったため父帝に可愛がられたという。山陰公主に封ぜられ、何偃の子の何?に降嫁した。弟の劉子業の即位後のある日、楚玉は子業に「私と陛下は男女の違いはあっても、同じく先帝の子です。しかるに陛下は何万という後宮の女がありながら、私は?馬が一人だけというのは、なんとしても不公平です」 その発言に対して子業は、姉の楚玉に愛人として30人の美男子を与え、また会稽長公主に加封した。 子業の行幸の際には、楚玉と大臣たちはみんな随従した。また子業は美男子で知られる?淵
生涯
景和元年(465年)11月、楚玉の叔父である湘東王劉ケ(後の明帝)が子業を殺し、皇帝に即位した。楚玉は淫乱をほしいままにした罪によって賜死となった。
参考文献
『宋書』巻7 本紀第7
『宋書』巻80 列伝第40
更新日時:2020年11月3日(火)08:17
取得日時:2020/12/20 23:12