劉暁波
プロフィール
出生: (1955-12-28) 1955年12月28日
死去: (2017-07-13) 2017年7月13日(61歳没)
出身地: 中国・吉林省長春市
職業:著作家
死没地: 中国・遼寧省瀋陽市
各種表記
繁体字:劉曉波
簡体字:??波
?音:Liu Xi?ob?
和名表記:りゅう ぎょうは
発音転記:リウ シャオポー
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ノーベル賞受賞者
受賞年:2010年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:中国の基本的人権確立のために長期にわたる非暴力の闘いを継続した
劉 暁波(りゅう ぎょうは、1955年12月28日 - 2017年7月13日[1])は、中華人民共和国の著作家。元北京師範大学中国語言文学系講師。民主化運動を始め広範な人権活動に参加し、度々投獄された。4度目の投獄中の2010年、ノーベル平和賞を受賞。服役中のまま2017年に死去した。 吉林省長春市生まれ。1969年、上山下郷運動が行われている間、父と共にホルチン右翼前旗に移る。吉林大学で中国文学を学んだあと、北京師範大学に進学。1984年に修士号取得後、同校で教職に就く。1980年代半ば、文学評論家李沢厚に対する批判で、中国文壇の「ダークホース」と呼ばれた[2]。1988年、「美学と人間的自由」により、同校で文学博士号取得[3]。その後、オスロ大学、ハワイ大学、コロンビア大学で客員研究員。 1989年に中国で民主化運動が勃発すると、コロンビア大学の客員研究者として米国滞在中に即座に帰国を決め、運動に身を投じる[4]。六四天安門事件直前、他の知識人3名(侯徳健
人物
生い立ち
人権活動期
事件後に「反革命罪」で投獄された。六四天安門事件の他の政治リーダーの多くが欧米からの圧力もあり「病気療養」の名目で出国許可される中で、1991年の釈放後も出国せずに引き続き文章を発表し、六四天安門事件の殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を呼びかけ、更に2度の投獄や強制労働を受けた。
2008年、「世界人権宣言」発表60周年を画期として発表された、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、再び中国当局に身柄を拘束された[5]。
当初より「言論の自由」を理由に無罪を主張していたが、2009年12月25日、懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され[4][6]、4度目の投獄となり遼寧省錦州市の錦州監獄で服役した。
2010年にノーベル平和賞を受賞し[7]、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった[8]。劉は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる[9]。投獄中の人物に平和賞が贈られたのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキー以来2人目である(1991年に受賞したアウンサンスーチーは獄中ではなく自宅軟禁中)[10]。受賞から死去まで一度も解放されなかったノーベル賞受賞者は劉暁波のみである。
死去劉暁波の追悼デモ
2017年6月26日に遼寧省監獄管理局がおこなった発表によると、末期の肝臓癌と診断され入院していた劉は[11]、家族による治療のための仮出所申請が許可され[12][13]、監獄から当局の厳重な隔離措置の下に置かれている中国医科大学付属第一病院(中国語版)に移された[14][15][16]。