劉恢
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劉恢 (城陽王)」とは別人です。

劉 恢(りゅう かい)は、前漢初期の諸侯王王→王)である。生年不明、没年は高后7年(紀元前181年[1]。高祖劉邦の庶子(第5子)。生母は不詳。文帝のすぐ下の異母弟。は共王。
生涯

紀元前196年夏に梁王彭越が謀反の疑いにより処刑されると、劉恢は新たな梁王に封じられた。紀元前183年頃にすぐ下の弟である趙王劉友(中国語版)が、呂雉の怒りを買い幽閉されて餓死すると、劉恢が趙王に転封された。梁国は「呂国」と改称され、呂雉の甥の呂産が封じられた。さらに劉恢はその呂産の娘を妻に迎えた(あるいは淮陽王から梁王の時代に迎えたとも言われる)。

妻の呂氏は、大叔母の呂雉と父の権威をもって夫を監視し、夫に対して傲慢で嫉妬深かった。面白くない劉恢は、数回しか妻と閨を共にせず、寵愛する側室と寝食を共にした。ところが呂氏は夫の隙を見て、その側室を毒殺した。側室の非業の死を聞いた劉恢は大いに嘆き悲しみ、彼女のために追悼の歌を作り、宮殿の楽人にそれを演奏させ、愛する側室のために偲んだ。間もなく人生に絶望した劉恢は、亡き側室の後を追い、毒を仰いで自決して果てた。劉恢の趙王としての在位はわずか半年だった。

その後、丞相陳平らの上奏による要請により、呂雉の甥で呂産の従兄弟である呂禄が、劉恢の後釜として趙王に封じられた。
脚注^ 『漢書』巻14、諸侯王表第2、趙共王恢。

参考文献

班固著、『漢書』。

中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。


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