劉 復亨(りゅう ふくこう、? - 1283年)は、モンゴル帝国・元に仕えた漢人武将。字は誠之。済南府斉河県の出身。 父は行軍千戸の劉通。父の代から、漢人軍閥(漢人世侯)のうちの四大軍閥(四大世侯)の一人の東平の厳実に配下の武将として仕えていた。徳州軍民総官を務める。 耶律楚材の門人であり、『湛然居士文集』には「代劉帥請智公尼禅住報先寺」、「送門人劉復亨征蜀」で名が載せられている。その詩文中で「お前が弟子入りして20年経つが、学問を好まず戦にばかり行っていたな」とある。 父の跡を継ぎ、モンケ・カアンの南宋遠征では厳氏の東平軍を率いて功績を挙げた。モンケ死後の争いでクビライ・カアンはアリクブケに対抗するために、漢人軍閥の兵力を直下の親衛軍として組み込み、武衛軍(後に侍衛親軍)を組織した。四大世侯配下の有力武将たちが部隊長の将校として登用され、劉復亨もその一人であった。中統元年(1260年)にはアリクブケを逐った後のカラコルムを警備し、武衛軍副都指揮使(副司令官)となる。中統3年(1262年)の漢人軍閥李?の乱では、乏しい兵糧に私財を提供し、クビライから褒賞金を与えられたが固辞した。至元2年(1265年)に左翼侍衛親軍副都指揮使となり、至元9年(1272年)に昭勇大将軍・鳳州等処経略使となる。至元10年(1273年)、日本侵攻軍の副司令官、征東左副都元帥に任ぜられた。 至元11年(1274年)、元の日本侵攻(元寇)に際し、左副都元帥として第一回目の侵攻(文永の役)に従軍。『元史』左副元帥・劉復亨伝では「(劉復亨は)征東左副都元帥に遷り、軍4万、戦船900艘を統率し日本を征す。倭兵10万と遇い、これを戦い敗った」とされている。 博多上陸後の百道原・姪浜の戦いにおいて負傷した。元側の記録『高麗史』によれば流れ矢で負傷したという。日本側の記録『八幡愚童訓』によれば少弐景資が敵軍大将を射落としたが、捕虜の証言でそれは大将軍流将公なる人物であった。これが劉復亨と推測されている。この指揮官の負傷により陣を乱した元軍は敗走した。 元への帰還後は敗戦の責で降格となる。そのため、第二回目の侵攻(弘安の役)には参加していない。その後、至元15年(1278年)に太平路総管・鎮国上将軍・淮西道宣慰使都元帥となり、至元20年(1283年)に奉国上将軍となったが、同年3月に死去した。 子に劉浩・劉澤・劉?・劉淵・劉淮がいる。
概要
生い立ち
栄進
元寇
その後
伝記資料
『元史』巻152 列伝第39「劉通伝」
『新元史』巻143 列伝第40「劉通伝」
参考文献
武田幸男『高麗史日本伝 (上下) 朝鮮正史日本伝2』岩波文庫、2005年
藤堂明保、竹田晃、影山輝國
飯田利行『定本湛然居士文集譯』国書刊行会、1996年
表
話
編
歴
モンゴル帝国の漢人世侯
真定史氏
一族
史秉直
史進道
史天倪
史楫
史権
史元亨
史天安
史枢
史天沢/サムカ・バアトル
史格
史燿
史天祥
家臣
王玉
張興祖
一族
張柔/ジャン・バアトル
張弘彦
張弘略
張弘範
張珪
家臣
喬惟忠
何伯祥
王義
李譲
聶福堅
済南張氏
一族
張栄/サイン・バアトル
張邦傑
張邦憲
張宏
張?
家臣
張迪
張福
劉鼎
劉斌
劉思敬
東平厳氏
一族
厳実
厳忠済
厳忠嗣
厳忠範
家臣
王玉汝
張晋亨
張好古
斉栄顕
岳存
王徳禄
信亨祚
畢叔賢
閻珍
孫慶
朱楫
朱泉
趙天錫
元好問
益都李氏
本拠:西京路(オゴデイ・ウルス領)
劉伯林
劉黒馬
劉元振
劉元礼
徳州劉氏
本拠:徳州(ジュルチェデイ郡王領)
劉通
劉復亨
劉淵
その他
河北
趙柔
石抹孛迭児
耿福
邸順
趙迪
山西
夾谷常哥
王兆(堅州)
劉会(堅州)
杜豊(汾州平遥県)
段直(沢州晋城県)
?和(絳州曲沃県)
周献臣(忻州定襄県)
謝天吉(隰州蒲県)
梁瑛(汾州平遥県)
袁湘(石州臨泉県)
程達(太原府祁県)
史千(蒲州河津県)
譚資栄(太原府交城県)