劉?
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劉 ?(りゅう きょう、生没年不詳)は、南朝斉からにかけての官僚文人。『文心雕龍』の著者として知られる。は彦和。本貫東莞郡?県前漢の斉悼恵王劉肥の末裔にあたる。
経歴

越騎校尉の劉尚(劉秀之の弟の劉霊真の子)の子として生まれた。早くに父を失い、志に篤く学問を好んだ。家が貧しく妻を迎えることができず、沙門の僧祐を頼って、十数年のあいだ居候した。経論に広く通じ、分類して序文をつけた。定林寺の経藏は、劉?の定めたものであった。『文心雕龍』50篇を編纂し、古今の文体を論じた。

梁の天監初年、奉朝請を初任とし、臨川王蕭宏に召し出されて中軍記室を兼ね、車騎倉曹参軍に転じた。太末県令として出向し、清廉な統治で知られた。南康王蕭績の下で仁威記室となり、東宮通事舎人を兼ねた。舎人を兼ねたまま歩兵校尉に転じた。昭明太子は文学を好んでおり、劉?の文才を愛して礼遇した。

劉?は仏教に帰依し、たびたび建康の寺塔や名僧の碑誌の文章を作った。武帝の命により慧震とともに定林寺で経証を編纂し、完成すると出家の許可を武帝に求めた。先だって髭と髪を焼いて覚悟を示しておいたため、武帝も出家を許した。劉?は寺で得度し、慧地と改名した。1年経たないうちに死去した。
著作

文心雕龍

『滅惑論』(『弘明集』巻8)

『梁建安王造?山石城寺石像碑』(『会稽?英総集』巻16)

以下は帰属不確定。

劉子』(劉昼の作とも)

出三蔵記集』(僧祐(中国語版)の作とも)

伝記資料

梁書』巻50 列伝第44

南史』巻72 列伝第62

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