劉乂
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劉 乂(りゅう がい、? - 317年)は、中国五胡十六国時代の漢(後の前趙)の皇族。光文帝劉淵の末子である。母は単皇后。兄に劉和劉恭劉聡、劉裕、劉隆がいる。
略歴

漢の創始者である劉淵と、?族首長である単徴の娘の単氏との間に生まれた。310年1月、劉乂の母である単氏は皇后に立てられ、劉乂は北海王に封じられた。

7月、劉淵が危篤に陥ると、劉乂は撫軍将軍・領司隷校尉に任じられた。劉淵が崩御すると、長兄の劉和が皇帝に即位した。劉和は衛尉の劉鋭と母方の叔父でもある宗正呼延攸に唆され、劉乂を含めた兄弟全員を皆殺しにしようと謀った。劉和は期を見計らって決起すると、各々の兄弟に討伐軍を差し向け、劉乂の下には尚書の田密と武衛将軍の劉?が派遣された。だが、田密と劉?らは寝返って劉乂に帰順した。劉乂らは関所の守備兵を殺して劉聡の陣営へ至り、劉聡の下に敵軍が到着する前に劉乂は計画を全て伝えた。そのため、劉聡は防備を整えて劉鋭の大軍を待ち構えた。劉鋭は、劉聡に備えがあるのを見ると、軍を返して劉隆・劉裕の攻撃に参加した。呼延攸と劉鋭らは2日のうちに劉裕と劉隆を破り、彼らを斬った。翌日、劉聡が攻勢に転じると、彼は西明門を攻略して光極西室にいる劉和を捕らえて、その妻子と合わせて処刑して、劉鋭・呼延攸らを晒し首とした。

劉和の死後、群臣は劉聡に帝位につくよう勧めたが、劉乂の母である単氏は皇后の地位にあったので、劉聡は彼に位を譲ろうと考えた。だが、劉乂は公卿らと共に涙を流し、劉聡に即位を懇願した。長らく熟考した末、劉聡は即位を受け入れた。劉聡は「劉乂と群臣は、天下が未だ平定されておらず、災いが多いことから、年長である私を推戴した。これは、国家の大事であるから、私も従わざるを得ない。だから、魯の隠公のように、劉乂が成人するのを待ち、彼に皇帝位を譲ろうと思う」と宣言した。そして、漢帝の座につくと、単氏を貴んで皇太后に立て、劉乂を皇太弟として領大単于・大司徒に任じた。

9月、単氏は容姿端麗であったため、劉聡は彼女を自らの後宮に入れた。匈奴の風習では、父が死んだ際、父の妻妾(実母は除く)を子が娶ることを許されていた。だが、漢族の文化では父の妻妾を息子が娶ることは、実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なされていた。そのために、劉乂は何度も母と兄に交わるのを止めるよう諌めた。単氏は思い悩んだ末に自殺した。劉聡は彼女の死を大いに嘆き悲しみ、これ以降、劉乂への寵愛が衰えたが、単氏を追慕して劉乂の皇太弟位は継続された。

甥の劉粲の生母呼延皇后は劉聡に対し「父が死ぬとその子が受け継ぐというのが、古今からの常道です。陛下は高祖(劉淵)の国を継承したというのに、どうして皇太弟などがいるのでしょうか。陛下が逝去されて百年も経てば、きっと粲の末裔は皆殺しとなっていますよ」と言った。劉聡は「朕もそのことについては憂慮している。もう少し待ち、よく考えてから答えを出そう」となだめたが、呼延皇后は「これを放置しておくと、大事になります。粲たち兄弟が成長して行くのを見て、皇太弟はどう思うでしょうか。きっと、自分の将来が不安になり、異心を抱くに決まっています。万が一、彼が小人と交流があるならば、私たちとの溝はさらに大きくなることでしょう。その事変は、今日にも起こるかもしれませんよ」と、強く進言した。 劉聡の心にはこれに同意するものがあった。

劉乂の舅である光禄大夫の単沖は涙を流して劉乂へ「縁遠い者は、親しい者に勝てません。陛下の心が河内王(劉粲)にあるのは誰もが知っていることです。殿下はどうして皇太弟を辞退なさらないのですか」と言った。すると、劉乂は「陛下は嫡庶の分をわきまえ、一度は私へ位を譲った。そして、私は幼長の序に従い、陛下へ位を譲ったのだ。そもそも、この国は高祖が創った物である。兄が死んで弟が立つのは当然ではないか。その証拠に見てみろ、劉粲兄弟は既に成長しているのに、私は皇太弟になれたではないか。そもそも、弟と子供なら、どちらも親しい。親疎にどれ程違いがあると言うのか。陛下には、そんな思いはありはしない」と返した。

312年1月、劉聡は呼延皇后が亡くなると、太保劉殷の娘を宮中に入れようとした。だが、同じ劉姓であったことから劉乂は固く諫めた。劉聡は年老いた伯父の太宰劉延年と一族の太傅劉景にこのことを問うと、劉延年・劉景らは劉殷の家系は王室系の劉の康公(姫季子)の系統であり、劉聡の系統とは異なっていることを引き合いに出し、宮中に入れる事に同意した。劉聡は大いに喜び、兼大鴻臚の李弘を遣わして劉殷の娘2人を左右の貴嬪とし、昭儀より上位に置いた。また、劉殷の孫娘4人を貴人とし、貴嬪に次ぐ位とした。6人の劉氏への寵愛は後宮を傾けるほどであり、劉聡はめったに外へ出なくなり、政務を顧みなくなった。国事は全て中黄門が上奏して、左貴嬪がこれを認可した。

劉聡が遊猟に耽るようになると、中軍の王彰がこれを諫めた。劉聡は大怒して彼を処刑するよう命じたが、上夫人王氏が叩頭して助命を嘆願したため、命だけは助けて獄に繋いた。劉乂は劉粲と共に劉聡を厳しく諫めた。また、太宰の劉延年を始め諸公卿列侯100人余りが劉聡の前に赴き、皆冠を外して涙を流しながら諫めると、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。

315年3月、血雨が東宮延明殿に降り、瓦を通して地に染み込んだ。劉乂はこれを知ると不快に感じ、東宮太傅の崔?・東宮太保の許遐・東宮太師の盧志らの下を訪ねた。盧志らは「主上がかつて殿下を皇太弟とされたのは、衆望に添うがために過ぎません。その意は長らく晋王の劉粲にあり、今では王公以下でこれに帰していない者はありません。相国の位は魏武以来人臣の官ではなく、主上はもともと追贈するための官として設置されたのですが、今、晋王を相国に据えてその威儀を整えました。相国府の壮大さはこの東宮を超えており、万事はこれに握られており、太宰、大将軍および諸王の陣営をその羽翼としております。もはや大勢は決しており、殿下が後継として立つことが出来ないことは明らかです。それだけではなく、不測の危機が朝夕に迫っております。四衛の精兵は5千以上でありますが、その他の諸王はみな幼いのでこれを奪い取るべきです。


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