劇場
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「劇場」のその他の用法については「劇場 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
プロセニアム・シアター(宝塚大劇場

劇場(げきじょう)とは、映画演劇歌舞伎舞踊オペラバレエコンサートなどを観客に見せるための施設

主に上演されるコンテンツの種類に合わせて舞台音響効果などを設計・建設された施設もあり、オペラは歌劇場日本能楽では能舞台、コンサートはコンサートホールと称することが多い。

演劇は日本では古くから芝居と呼ばれ、江戸時代から昭和初期にかけて各地に芝居小屋(しばいごや)が建てられた[1]。各地の郷土芸能地芝居ばかりではなく、巡業する「ドサ回り」(佐渡を裏返した言葉)の芸人やその一座が劇を演じた。一部は現存し、重要文化財に指定されている芝居小屋もある[1]

現代でも中小の劇団が公演を行う小規模な劇場を特に芝居小屋と呼ぶことがあり、大きな劇場であっても演劇関係者は業界用語としてこれを「小屋」と呼ぶことがある。演劇は、倉庫など劇場以外の建物内や路上ばど野外で行われることもあるが、これらの場所は演出空間ではあっても劇場とは呼ばない。

後に芝居小屋の多くは映画を上映する設備を備えるようになり、娯楽の移り変わりに伴い映画館へと役割を変えていった。このため、演劇を上演しない映画館であっても「劇場」と名付けられているものが多く残っている[2]。現代においても、映画館を指して「劇場」と表現する場合は多い[3]テレビドラマテレビアニメ等の映画化作品を「劇場版」と銘打つ、映画を放送するテレビ番組のタイトルに「…洋画( / 邦画 / 映画)劇場」などと名付ける、といった例も挙げられる。
劇場の様式

劇場の様式は、そこで上演される作品と同様に多種多様である。多くの劇場では、演技空間である舞台と、観客席、そして舞台装置などを納める舞台裏と、俳優らの控え室である楽屋が備わっている。オペラミュージカルを上演するための専用の劇場では、これらの他にオーケストラピットなども用意されている。完全に平らな空間のみの劇場もあり、そのような空間では上演内容に合わせて舞台や客席の配置を調節できるようになっている。
分類

劇場は、舞台と客席の位置関係によって以下のように分類できる。
舞台と客席の位置関係が固定されているもの
空間の片側が舞台で、片側が客席になっているもの(
プロセニアム形式シューボックス型

舞台が客席に突き出し、複数の方向から客席が囲んでいるもの(張り出し舞台、オープン形式)

舞台が空間の中央にあり、客席が取り囲んでいるもの(円形舞台、ヴィンヤード型


演目・演出により、舞台と客席の位置を自由に配置できるもの

以下に劇場の代表的様式を解説していく。これらのうち、古代ギリシャの劇場とエリザベス朝時代のイギリスの劇場は、後述の張り出し型舞台に分類されるべきものだが、西洋の古典的舞台を紹介する意味で掲載してある。また、歌舞伎と能の劇場も張り出し舞台に分類できるが、日本の伝統演劇の様式を紹介する意味で紹介する。
古代ギリシア演劇「ローマ劇場」も参照「古代ギリシアの演劇」も参照

古代ギリシアでは、劇場は丘などの斜面を削って建造された。野外劇場だが、演者や合唱隊の声がよく届くよう音響効果の優れた構造が取られている。劇場全体はすり鉢状になっており、底の部分に俳優が演じる舞台(プロスケニオン)と、合唱隊用の平土間(オルケストラ)があった。客席は、すり鉢の斜面部分に、舞台を半円形に囲うように作られた。収容人数は最大規模のもので2万人程度と言われている。

現代の劇場でも、古代ギリシアの劇場の様式を模したり、何らかの形でそのコンセプトを取り入れたりしている劇場は少なくない。日本では、彩の国さいたま芸術劇場の小ホール(最大客席数346名)や日比谷野外音楽堂(客席数2669名)、上野恩賜公園水上ステージ(客席数約1000人)などがある。
エリザベス朝演劇詳細は「イギリス・ルネサンス演劇」を参照

ルネサンス期のイギリスでは、エリザベス1世の時代に独特の演劇文化が花開いた。建築物部分は三層になっており、規定の料金を払った観客はここに上がり座って観劇することができた。1階の平土間は立ち見用の観客席となる。舞台は平土間に突き出すような形で設置されており、その上部には柱に支えられた屋根がある。建築物部分とこの舞台上以外に屋根はなく、平土間上部は陽光を取り入れるために吹き抜けとなっている。

収容人数は劇場によって異なるが、シェイクスピアの書き下ろし戯曲が上演されていたロンドングローブ座では、2000人を越える観客が観劇できたという。

日本では、1988年に完成した東京グローブ座が、ロンドンにあったグローブ座を模した劇場としてある。
能、狂言能楽堂

狂言は、能舞台で上演される。ここでは明治以降に成立した能楽堂の様式に基づいて説明する。

主舞台となるのは柱に囲われた三四方の板張りの空間。向かってその右側には、「地謡座(じうたいざ)」と呼ばれる場所があり、シテ(主役)の演技に会わせて合唱をする地謡が座る。主舞台の奥には「後座(あとざ)」があり、楽器の演奏者である「囃子方(はやしかた)」が位置する。さらにその奥は「鏡板(かがみいた)」と呼ばれる老松の絵が描かれた壁がある。後座の向かって左側には「橋掛り(はしがかり)」と呼ばれる廊下がある。ここで演技が行われることも多い。橋掛かりの前には、主舞台に近い順に、「一の松」「二の松」「三の松」と呼ばれる松の若木が植えられている。橋掛かりの奥には、「揚幕(あげまく)」もしくは切幕(きりまく)」という幕越しに、鏡の間と呼ばれる部屋がある。

いわゆる能舞台が定着したのは室町時代末期頃と考えられている。それ以前、即ち現在の能が成立する以前は、神社内の建築物や芝生、屋外に仮設置された舞台などで演じられた。舞台が屋内に入ったのは明治時代からで、この屋内型の能舞台にも屋根があるのは、能が屋外で演じられていた頃の名残である。現在各地で薪能が盛んになり、屋外での公演がなされているので、以前の能の雰囲気も知られる。

能舞台は細かく様式化されており、柱一本一本や地謡座・後座内の位置などに全て名称が付けられているが、ここでは省略する。舞台の下の地面には数個の甕を埋めて、音響効果の工夫がしてある。

古い神社などに残るものや、新設された屋外型の能舞台も、主舞台があり橋掛りがある空間の基本構造はほぼ上述の能舞台と同様である。
歌舞伎

初期の歌舞伎は能舞台の様式を模していたが、次第に橋掛かり部分が拡大し、舞台空間が拡がっていった。また初期には屋外に舞台が仮設され、観客は芝居(の上)で観劇していた。やがて市中に芝居小屋が建てられるようになるが、屋根は舞台の上のみで、観客は土間に座って観劇したため、雨天の上演はできなかった。葺の屋根を備えた芝居小屋が初めて建てられたのは1724年享保9年)のことである。

歌舞伎の劇場はその複雑な機構に大きな特徴がある。これには静寂で二次元的な洗練を極めた能の反動として、歌舞伎がより躍動的で三次元的な見世物として発達していったこと、そして人形を使うことで幻想的表現が可能な人形浄瑠璃から強い影響を受けたことなどが理由としてあげられる。奥村政信 画『芝居浮繪』(しばい うきえ)寛保年間の葺屋町市村座。広島県府中市上下町に現存する翁座1925年竣工)出石永楽館1901年竣工)

右の錦絵は寛保年間(1741?44年)葺屋町にあった市村座の様子が描かれている。間口の狭い舞台にはまだ能の名残りの飾り破風が架けられていたこと、既に桟敷は土間から板張りになってその上は屋根で被われていたこと、二階には座敷席がありその上には明かり取りの天窓があったことなどが見て取れる。ガス灯を劇場内に設置して夜間の上演を行うようになったのは明治11年(1878年)に開場した新富座が最初で、それ以前の上演は全て朝方から日没までだった。

舞台の延長として観客席を貫く「花道」は、役者主義の演劇でありサービス精神旺盛な歌舞伎にとって重要な装置であり、大坂では承応前期までに見られ、江戸でも延宝5年に創設され[4]、独特の発達をとげた。


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