劇団四季
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劇団四季: Shiki Theatre Company

電通四季劇場[海]の入居するカレッタ汐留
設立1953年
設立者浅利慶太
日下武史
種類劇団
法人番号4020001032094
目的演劇
関連組織四季株式会社
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劇団四季(げきだんしき)は、四季株式会社が制作企画・興行運営を行う、日本の商業演劇を代表する劇団である。初期はアート志向であり、シェイクスピアチェーホフなど既存商業演劇(新派コマ劇場新橋演舞場など)よりは、新劇団体(俳優座文学座など)に近い演目を持っていたが、1972年ごろからブロードウェイディズニー映画などの商業演劇に転向した。年間3,500公演(1日9 - 10公演)を行うともいわれている。
概要

700名以上の俳優、経営350人、技術350人のスタッフにより、東京5か所・大阪1か所・名古屋1か所に設置した専用劇場を中心に年間3,000ステージ超を上演(興行)する。年間観客動員数はリピーターを含めて約300万人。1970年代以降、海外ミュージカル作品のロングラン上演を通じて日本にミュージカルを定着させるのに大きな役割を果たした。

海外ミュージカルの輸入によらない、浅利慶太がプロデュースを手がけて制作する「劇団四季オリジナルミュージカル」や「劇団四季ファミリーミュージカル」も人気がある。また、自由劇場開業後は従前のストレートプレイの上演も増加している。
概歴

1953年(昭和28年)7月14日に浅利慶太日下武史らを中心として10人で結成した学生演劇集団であった。劇団演出は浅利慶太であった。

最初からミュージカル劇団を志向していたわけではなく、設立からかなり長い期間の間はストレートプレイ専門の劇団だった。これは、当時新劇界を席巻していたイデオロギー優先で演劇的な面白さを欠いた潮流に懸念を抱いた創立者たちが、演劇そのものの面白さを追求する劇団として創設したこととも関連している。おもにジャン・ジロドゥジャン・アヌイフランス文学作家の書いた戯曲を演じていた。

芸術性を優先して、日本人による創作劇を連続上演して経営危機に陥ったり、生活を支えるためにアルバイトを優先する劇団員と、それを批判した劇団幹部の対立によって内部分裂の危機に見舞われたりしたが、安定した集客力を持つ高水準の芝居を上演することで、公演だけで法人運営が成り立ち、劇団員も生活できる経営を志向するようになっていく。

1971年(昭和46年)に浅利のプロデュースで越路吹雪主演のミュージカル『アプローズ』がヒットすると、さまざまなミュージカルを上演しながらノウハウを蓄積し、1979年(昭和54年)に『コーラスライン』を上演したことが転機になる。

日本の劇場は月単位契約のため、大ヒットを重ねても結局収益が限られる傾向があり、浅利は専用劇場の確保を模索し始める。1983年(昭和58年)に西新宿の都有地空地を借り、テント張りの仮設劇場を設置し、1984年(昭和59年)11月10日まで『CATS』のロングラン公演に踏み切った(山田卓振付)。1985年(昭和60年)には大阪市西梅田の旧国鉄コンテナヤードに設置した仮設テント劇場で『CATS』を再演、13か月のロングラン公演を達成した。

浅利は、中曽根内閣時代に中曽根康弘のブレーンを務め、政界から経済界への広い人脈を活かすようになる。まず福岡、1996年キャナルシティ博多内に完成した「福岡シティ劇場」を劇団四季日本初の専用劇場として開場[1]。創立45周年の1998年(平成10年)には、国鉄改革により接点が生じた松田昌士が当時社長を務めた東日本旅客鉄道(JR東日本)がメセナ活動の一環として「JR東日本アートセンター 四季劇場」を竣工し、それを関東地方初の専用劇場とした[2]

四季劇場[春]のこけら落とし作品である『ライオンキング』は、日本最長である20年以上のロングラン公演記録を日々更新し、ターニングポイントとなった。以後、電通阪神電気鉄道など大手企業が自社ビルなどに設置した劇場を専用劇場として独占的に使用したり、『アイーダ』『マンマ・ミーア!』『ウィキッド』など最新の海外ミュージカル作品の輸入上演により動員数を拡大し、週におおむね4日以上ミュージカルやストレートプレイを上演し続けている。『コーラスライン』を上演するまで、劇団四季の上演回数は多くても年19回で、年平均10回程度だった。しかし『コーラスライン』を上演した1979年(昭和54年)は前年の50倍の581回となり、『CATS』を初演した1983年(昭和58年)は707回を数える。以後一貫して上演回数が増え続け、2002年(平成14年)には2,530回上演している。

また2010年代後半からはオリジナル作品の創作に取り組んでおり、2019年上演の『カモメに飛ぶことを教えた猫』や2020年上演の「はじまりの樹の神話?こそあどの森の物語?』・『ロボット・イン・ザ・ガーデン』、2022年上演の『バケモノの子』、2024年4月上演予定の『ゴースト&レディ』などがある。

2020年10月24日から、東京・JR東日本四季劇場[秋]のオープニング作品として『オペラ座の怪人』が上演される[3]

2021年6月15日、『劇団四季 The Bridge ?歌の架け橋?』宮城県・多賀城公演(多賀城市民会館大ホール)の公演準備中、派遣労働者が舞台セットで2.47メートルの高さから墜落し、脳挫傷の重傷を負った。2022年1月27日、仙台労働基準監督署は、手すりの設置などの墜落防止措置を怠った四季株式会社と舞台監督を労働安全衛生法違反の罪で書類送検した[4]。2022年3月8日、仙台簡易裁判所が四季株式会社と舞台監督にそれぞれ罰金20万円の略式命令を出した[5]

2022年10月から東京ディズニーリゾート千葉県浦安市)内の多目的ホールである舞浜アンフィシアターにて『美女と野獣』が上演することを2021年12月に発表した。劇団四季はこれまでに7作品のディズニーミュージカルを上演しているが、同リゾート内で上演するのは同作品が初めてとなる[6][7]

2024年1月24日、海外新作ミュージカル「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を2025年4月にJR東日本四季劇場[秋]で上演決定したことが発表された。[8]
特徴
方法論

演技にあたり、常に背筋を伸ばして腹式呼吸を意識し、母音をはっきり発音する独特の朗唱法(母音法)を「四季メソッド」として徹底させている[9]。この発声方法は舞台上から観客の耳へと台詞がはっきり届くよう生み出された。
技術
シアター・イン・シアター方式

従来、海外の大型ミュージカルを上演するには劇場に大がかりな仕込みを行う必要があった。


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