副島 孔太GXAスカイホークス 監督 #25
基本情報
国籍 日本
出身地東京都大田区[1]
生年月日 (1974-05-17) 1974年5月17日(50歳)
身長
体重186 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手、一塁手、三塁手
プロ入り1996年 ドラフト5位
初出場1997年6月14日
最終出場2004年7月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
桐蔭学園高等学校
法政大学
ヤクルトスワローズ (1997 - 2002)
オリックス・ブルーウェーブ (2002 - 2004)
茨城ゴールデンゴールズ
フェデックス
鉄腕硬式野球倶楽部
監督・コーチ歴
茨城ゴールデンゴールズ
フェデックス
鉄腕硬式野球倶楽部
BBCスカイホークス
GXAスカイホークス
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
副島 孔太(そえじま こうた、1974年5月17日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、野球指導者。 少年野球(大田シニアリーグ)の時代から日本代表に選ばれ世界大会で優勝するなど、アマチュア野球界ではエリートコースを歩んでいた[1]。 桐蔭学園高等学校では、1年生にしてレギュラーに定着。2年、3年の1991年と1992年には夏の甲子園に連続出場[1]。1991年は3年生に木大成、1年生に高橋由伸を擁して旋風を起こし、3回戦まで進出。自身は3回戦でラッキーゾーンへの本塁打を放っている。 3年時のチームは打線に厚みが増し、優勝候補筆頭と目されたが、まさかの初戦(甲子園開幕戦)サヨナラ負けを喫する。この試合では延長戦であわやバックスクリーン直撃となる大飛球の二塁打を放っている。 法政大学時代は、スラッガーとして活躍(大学通算11本塁打)[1]。1995年の全日本大学選手権では東北福祉大学を破って学生王者となり、翌年のドラフト会議でヤクルトスワローズから5位指名された[1]。背番号25。当時のヤクルト・野村克也監督は、沙知代夫人の所有する少年野球チーム(シニアリーグ)の関係から副島の実力を昔から熟知しており、その影響があっての指名といわれている。また、ヤクルトには法大の2学年先輩にあたる稲葉篤紀がおり、プロでも再びチームメイトとなった。 1997年のヤクルト入団後は、打撃は優秀だったが、守備に難があったことなどから代打や先発の繋ぎなどの起用が多かった。 2001年の大阪近鉄バファローズとの日本シリーズ第4戦では、岡本晃から代打決勝本塁打を放ち、チームの4年ぶりの日本一に貢献する[1]。 翌2002年は開幕から不振に苦しみ、シーズン途中に戎信行とのトレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍[1]。 背番号1を背負い長距離砲として期待されるが、レギュラー争いに敗れ、2004年には背番号を44に変更。同年10月7日、近鉄との合併による分配ドラフトを前に戦力外通告を受ける[2]。
来歴
ヤクルト時代
オリックス時代
Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef