剣_(小説)
[Wikipedia|▼Menu]


訳題Sword
作者
三島由紀夫
日本
言語日本語
ジャンル短編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『新潮1963年10月号
刊本情報
出版元講談社
出版年月日1963年12月10日
装幀真鍋博
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
テンプレートを表示

『剣』(けん)は、三島由紀夫短編小説。全7章から成る。大学の剣道部での人間模様を描いた小説である。清らかな微笑をたたえ、「剣」の道に全霊を傾け、極みを追い求める若い主将が、一部の部員の些細な裏切りによって諌死するまでが描かれ[1]、その結末にもかかわらず、「一種澄妙な透徹感」が全体をつらぬき、無駄なく明瞭な描写力の備わった作品となっている[2]

1963年(昭和38年)、文芸雑誌『新潮』10月号に掲載され、同年12月10日に講談社より単行本刊行された[3][4]。文庫版は1971年(昭和46年)7月1日に講談社文庫より刊行の『剣』と、1998年(平成10年)3月10日に講談社文芸文庫より刊行の『中世・剣』に収録された[4]。翻訳版はジョン・ベスター訳(英題:Sword)、中国(中題:剣)などでなされている[5]

1964年(昭和39年)3月14日に、市川雷蔵の主演により映画化された[6]
あらすじ

大学剣道部主将の国分次郎は強く正しく、決然とした姿勢がその剣や生活にも行きわたっているような青年である。後輩で一年生の壬生は次郎を尊敬し、次郎のようになりたいと思っている。次郎の同級生の賀川は、主将として迷いのない次郎の言動がうとましく、傲慢とも感じ、その美しい微笑に嫉妬していた。次郎も賀川も同じ剣道四段だったが、審査の厳しい大学での段位では賀川は三段だった。大学の段位が四段の次郎は、もし連盟の査定を受ければ楽に五段がとれる実力であった。しかし次郎は決して連盟の査定に出ようとはしなかった。そんな余裕のある次郎に賀川は重苦しさと感じ、時あらば彼に反抗し、自分の流儀を主張したいと思っていた。

剣道部の夏の合宿は西伊豆田子という漁村で行なわれることとなった。合宿場所は円隆寺という寺である。主将・次郎の統率の下、海で泳ぐことは禁じられ厳しい稽古が続けられた。合宿8日目に部長の木内が船で着くという電報があり、次郎と副主将らが迎えに出た。そのとき、賀川が、時間が十分あるから次郎がいない隙に海へ泳ぎに行こうと皆を誘う。うだるような暑さの中に投げ入れられた誘惑に皆は乗ったが、壬生だけは断った。しかし、木内や次郎たちが予定より早く車で戻ってきた気配がすると、壬生は急に、1人だけ規律を守った自分を次郎は偽善的に見るのではないかと考え、急いで皆のいる海へ駆けていった。

皆が海から帰ってきた時には、すでに木内と次郎らが本堂にいた。賀川は木内の命令によって東京へ帰らされる罰を受けた。反抗的な賀川は、うなだれる次郎を烈しい目で見つめた。夕食の後、次郎は壬生に、「お前も皆と一緒に海へ行ったのか」と訊ねた。壬生は自分も海に行ったと晴れやかに嘘を言った。

合宿の最後の晩、納会の演芸のさなかに次郎は席を立って行った。稽古着に竹刀を掲げて出て行くのを部員の1人が見かけていたが、夜中になっても戻らないので騒ぎになった。皆で手分けしてあたり一帯を探すと、裏山の頂きの林の中で、腕に竹刀を抱え仰向きに死んでいる次郎を、壬生を含む一隊が発見する。
登場人物
国分次郎
大学の
剣道部の主将。美しい微笑。強く正しい者になることを、少年時代からの一等大切な課題としている。父親は胃腸病院の院長だが、次郎が中学のころから狂いをはじめ、母親はヒステリーになり酒や麻雀に溺れる暗い家庭環境で育つ。国分家の紋は、二葉竜胆の金色の紋。
賀川
次郎と同級生の剣道部員。威を衒い、力を恃むところのある剣。次郎のような純一な烈しさが欠けている。副将にも選ばれなかった。友人でありながら、自分よりも実力や清潔さのある次郎に重苦しさを感じている。校内合宿のときに道場の裏手で喫煙し、次郎に制裁されたことがある。
壬生
19歳。一年生の剣道部員。先輩の次郎を尊敬している。がのびない体質。次郎の悪口を言う奴はゆるしておけず、同級生と喧嘩したこともある。のびのびと育ち、年のわりに子供っぽいと家族に思われている。家族にも次郎のことばかり話し、姉妹や母に、「又はじまった」とからかわれている。
木内
50歳。剣道部のOBで監督。肥っていて色が白く、顔の造作も大まか。剣は強いが顔には険しいところが少しもない。すでに嫁いだ娘が2人いる。
若者たち
与太者5、6人。次郎の大学の伝書鳩を空気銃で射撃。銃を持った若者は角ばった顎の気取ったかすれ声。次郎に退治される。
老小使
大学の用務員。小柄な老人。鳩の血がついた次郎の頬を白百合の花びらで拭う。
大学の学生たち
不良3人。大学近くの喫茶店で、トイレの近くに座り、出てくる若い女の客をからかう。下卑た笑い声を立てる。次郎に追っ払われる。
その他の剣道部員たち
試合で、次郎に胴をとられた副将の村田。マネージャーの山岸。その他。
主題

三島由紀夫は、1963年(昭和38年)2月に、評論『林房雄論』を発表するが、同年に発表された他の作品と関連し、〈僕の考えを批評の形で出したのが『林房雄諭』だし、小説にしたのが『午後の曳航』や『剣』で、『喜びの琴』はその戯曲といふことになります〉と述べている[7][8]

『林房雄諭』には、〈マルクス主義への熱情〉も、明治維新の〈攘夷論〉も同じ〈心情〉から出た〈思想〉であるという三島の考察があり[9][8]、三島はそれを、〈その志、その「大義」への挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」〉だとしている[9]

そして『林房雄諭』の中で述べていた一句は、『剣』の主題との関連で、1968年(昭和43年)1月の円谷幸吉の自殺に際しても、次のような一節の中で繰り返し言及されている[10]。円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた。私はかつて全く同じやうなケースの自殺を、「剣」といふ小説で描いたことがあるが、小説のやうに純粋化された事例が現実に起つたことにおどろかされた。(中略)
私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。

「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど自己破壊的な否定、……云ひうべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属してゐるのである。 ? 三島由紀夫「円谷二尉の自刃」[10]

こうした三島の思考である「〈思想〉と〈心情〉のドラマ」、「〈心情〉の純粋な極致」[8]、「〈思想〉、イデオロギーを越えた〈心情〉」が作品主題になり、三島がその〈心情〉に「類のない意義」を見出していることが看取されている[1]

なお、作品素材となる剣道については、東京学芸大学国学院大学学習院大学の剣道部に取材をしている[11]
作品評価・研究

佐伯彰一は『剣』を「かくべつ充実した作品」と評し[2]、クライマックスは主人公の自殺となっているが、「一種澄妙な透徹感が全体をつらぬいていて、爽やかな後味さえのこす」と述べて[2]、その「恐ろしいほど透き通った澄明度、主人公の剣道の構えそのままに一分の隙もない均斉ぶり」において、『憂国』よりも上だと賞讃している[2]。そして剣道の動作を表わす描写を、明澄で「フィジカルな力にあふれた描写」とし、そこに見られる「鮮明なイメージ」を、「無駄のない直截さ」と評しながら[2]、その文体は「必要なものは、くまなく形象化されながら、一切の贅肉は思いきりよく剃り落とされ」て、柔軟かつ張りつめているとしている[2]

そして、主人公を〈稀な、孤独な〉人物だと簡素に表現している三島の描き方について佐伯は、人物像を綿密に描かないことによって、「緊張と一貫性の効果」を生み、「鋭利な一瞬の疾駆のような、見事な虚像」となっているとし[2]ヘミングウェイが〈稀な、孤独な〉漁師闘牛士を「鋭利な筆致」で「古き良きアメリカの」を描いたように、三島もまた、『剣』のような「見事な主人公を通じて、古き良き日本の魂をとらえ得た」と評しつつ[2]、その「抽象化し、純化して、ほとんど余白で暗示に頼るという筆致もまた、古き良き日本の芸術の方法」であったと解説している[2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef