剣闘士
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ズリテン・モザイク(英語版)に描かれた剣闘士。200年頃。

剣闘士(けんとうし、: Gladi?tor、グラディアートル、グラディエーター)は、古代ローマにおいて見世物として闘技会で戦った剣士。名前の由来は、剣闘士の一部がローマ軍団の主要な武器でもあったグラディウスと呼ばれる剣を使用していたことから来ている[1]

共和政ローマローマ帝国の多くの都市にはアンフィテアトルム(円形闘技場)が存在しており、そこで剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられた。また人工池などを用いて模擬海戦が行なわれることもあった。闘技会に批判的なキリスト教の影響によって衰退し、404年に西ローマ皇帝ホノリウスの命令で闘技場が閉鎖されたが、その後も各地で続けられていたようであり、681年に公式に禁止されて消滅した[2]
歴史剣闘士試合が描かれたパエストゥムの墓の壁画。
紀元前4世紀頃「第三次奴隷戦争」、「アンフィテアトルム」、および「コロッセオ」も参照

剣闘士の起源については、はっきりしたことはわかっていない。従来のエトルリア人の生贄の儀式をローマが採用したという説は、現在では支持されていない[3]。もう一つは南イタリアのカンパニア地方起源説であり、紀元前4世紀のパエストゥムの墓の壁画には試合を行う剣闘士の姿が描かれている[4]。歴史家リウィウスはカンパニア人が敵であるサムニウム人を剣闘士として戦わせていたと述べている[5]。紀元前1世紀頃は南イタリアが剣闘士興行が最も盛んな地域だった[6]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}マルクス・アエミリウス・レピドゥス、2度の執政官と鳥卜官を務めた彼のために、3人の息子、ルキウス、マルクス、クィントゥスは、葬祭を3日間開催し、フォルムで22組の剣闘士を戦わせた。—ティトゥス・リウィウス、『ローマ建国史』23.35.15

記録上最も古い剣闘士試合は紀元前264年にローマのマルクス・ユニウス・ブルトゥスとデキムス・ユニウス・ペラの兄弟が父の葬儀に際してボアリウム広場で行ったものである[7][8]。歴史家リウィウスは紀元前3世紀から前2世紀の闘技会に幾つか言及しており、この中でも紀元前174年のティトス・フラミニヌスが主催した74人の剣闘士による闘技会は注目すべきものであったと述べている[9]。以降、故人の哀悼のための形式での追悼闘技会(ムヌース)が広まり、生贄を求める農神サトゥルナリアの祭に際して行われる傾向が強かった[10]。紀元前2世紀には円形闘技場が建設されるようになり、都市ローマでの闘技会は主にフォルム・ローマーヌムで行われるようになった[11]

追悼闘技会は、その規模がより大規模なものになってゆき、やがて故人の死を悼むものから世俗化した見世物となり、政治家のプロパガンダの場と化していった[10][12]。民衆は闘技会に熱狂し、政治家にその主催を要求するようになり、公職選挙と結びついた追悼闘技会が行われるようになる[13]。このため闘技会が派手になりすぎるとの危惧を受け、開催日数や剣闘士数の規制が設けられたが遵守されず、民衆も問題にせず、公職選挙と闘技会の結びつきは帝政初期頃まで続いた[14]

共和政ローマの領土拡大とともにローマ人は大量の戦争捕虜を手に入れ、これら捕虜たちがおのおのの民族風の武装をした剣闘士にさせられ、紀元前2世紀に初期の剣闘士のスタイルであるガリア闘士とサムニウム闘士、紀元前1世紀にはトラキア闘士が登場した[15]ポンペイ遺跡の壁面に描かれた剣闘士の落書き。

剣闘士の試合が盛んになっていた時期の紀元前73年にカプアの剣闘士スパルタクスが最大規模の奴隷蜂起(第三次奴隷戦争)を起こした。およそ70人の剣闘士の脱走から始まった反乱は12万人もの規模に膨れ上がってイタリア半島を席巻した。反乱軍はローマ兵捕虜に剣闘士試合を強い、古代の歴史家オロシウスは「かつて見世物にされていた者たちが、今や観客となった」と述べている[16]。紀元前71年にスパルタクスの反乱軍はクラッススによって鎮圧され、全滅した。

ユリウス・カエサルは闘技会を政治プロパガンダの場として活用し、紀元前65年に640人もの剣闘士を集めた大規模な闘技会を催し、紀元前46年にはさらに大規模な総勢1,200人もの闘技会を開催している[17][18]。カエサルはローマ近郊のマルスの野(カンプス・マルティウス)に池を造って軍船を浮かべ、模擬海戦(ナウマキア)を行わせて人気を博しており、後の皇帝たちもこれに倣っている[19]

カエサルは紀元前65年の際はかなり以前に死去している父の名で、紀元前46年の時は前例を破り女性である8年前に死去した娘ユリアの追悼の名義で剣闘士試合を催しており、形式的にはなおも宗教的な側面を残していた[20]。剣闘士研究の基礎を築いた歴史学者ジョルジュ・ヴェルはこれまで剣闘士試合とは別個に催されていた純粋な見世物である闘獣士(英語版)が様々な方法で猛獣を殺す「野獣狩り」(ウェーナーティオー(英語版))が剣闘士試合の前座として組み込まれたことが剣闘士試合の世俗化の決定的画期であったと指摘し、その初出は6年に催された大ドルススを追悼する闘技会と考えられている[21]

初代皇帝アウグストゥス(在位:紀元前27年 - 14年)は在位中に8度の闘技会を主催し、1万人の剣闘士を戦わせその他の競技会と合わせて3500頭の猛獣を殺している[22]。次のティベリウス帝(在位14年 - 37年)は逆にいっさい見世物を主催せずひどく人気がなかった[23]カリグラ帝(在位37年 - 41年)とクラウディウス帝(在位41年 - 54年)は剣闘士試合を盛大に催し、これに対してネロ帝(在位54年 - 68年)は戦車競走演劇を好んだ[24]。貴族たちも人気取りのために私的に興行師や訓練士を雇い入れて剣闘士団を組織させている[25]

民衆は闘技会の開催を強く望み、北イタリアのポッレンティア(英語版)で役人が死去した際、町が追悼闘技会を催さなかったため、怒った住民が力づくで葬儀を阻止しようとして兵隊が出動する騒ぎが起こっている[26]。また、59年には南イタリアのポンペイの円形闘技場で興奮したポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間ポンペイ市民は市としての闘技会の開催を禁止されている[27][28]。79年のヴェスヴィオ火山の噴火でこの町が地中に埋もれ、発掘された遺跡から円形闘技場跡や剣闘士養成所跡、防具の出土品そして剣闘士に関する民衆が書いた落書きが見つかっており、古代ローマの剣闘士の実像を知る手がかりになっている。ローマのコロッセウムと隣接する大養成所(ルードゥス・マーグヌス)の遺跡。


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