前1200年のカタストロフ
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前1200年の地中海東部

前1200年のカタストロフ[注釈 1](ぜん1200ねんのカタストロフ、英語: Late Bronze Age collapse)とは、地中海東部を席巻した大規模な社会変動のこと。この社会変動の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより、青銅器時代は終焉を迎え、鉄器時代が始まった。

その原因は諸説あるが、この社会変動の発生により、分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出した[8]

紀元前1200年ごろ、環東地中海を席巻する大規模な社会変動が発生した。現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は、古代エジプト、西アジア、アナトリア半島クレタ島ギリシャ本土を襲った。この災厄の内実については諸説存在しており、いまだに結論を得ていない。

気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、農産物が確保できなくなったとする説、エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接に関連していたが、ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退したとする説などが存在する。地震によって崩壊したとする説は環東地中海全体の崩壊ではなく、特定の国にのみ考えられており、少なくともミケーネ時代ティリンスではドイツ考古学研究所 (en) の調査によれば激しい地震活動が発生したことが確認されている[9]

この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば
ヒッタイトの崩壊

エジプトにおける海の民の襲撃

ギリシャのミケーネ文明の崩壊

以上の3項目に分けることができる。また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる[10]
ヒッタイトの崩壊

ウガリットのラス・シャムラ遺跡で発見された文書によれば、ヒッタイトの崩壊は前12世紀初頭とされている。このラス・シャムラ遺跡を発掘したクロード・A・シェッフェル (en) によれば、海の民が沿岸を進み小アジアを横断、ヒッタイトとその同盟国へ攻撃を仕掛けキプロスシチリアカルケミシュ、ウガリットへ手を伸ばしたとされている。ただし、アナトリア内陸部にあるハットゥシャにはその痕跡は残っていない[注釈 2][12]

また、ヒッタイトの最後の王シュッピルリウマ2世がウガリットの支援を受けた上で海の民に勝利したというエピソードも残されているが、これは侵入者がヒッタイトを分断して崩壊へ導いたことを否定する材料にもならず、トラキアからフリュギア人らがヒッタイトを攻め滅ぼした可能性もフリュギア人らがヒッタイトの大都市が崩壊したのちにアナトリアへ至っていることから余り高くない[12]

ヒッタイトの崩壊には2つの仮説が存在しており、侵入者がハットゥシャ、カニシュ (en) などあらゆる建物に火を放ったとする説。ヒッタイトは内部と近隣地域から崩壊したあと、アッシリアの攻撃を受けたことによりウガリットを代表とする属国、同盟国が離反、さらには深刻な飢饉のために弱体化して崩壊したとする説である。シェッフェルによれば後者の説には裏づけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見された文書によればヒッタイト最後の王、シュッピルリウマ2世は「国中の船を大至急、全て回す」よう命令しており、オロンテス川流域の小麦をキリキアへ運ぶのと同時に、王、その家族、軍隊を移動させようとしていた。これはシュッピルリウマ2世が首都を捨てようとしていたことが考えられ、これについてシェッフェルは旱魃と地震により、ヒッタイトに繰り返し飢餓が発生していたと分析している[12]

さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方は地震群発地帯であり、地震により火災が発生したことで各都市に火災の跡が残っているとしており、ウガリット時代の地層は稀に見るぐらいの激震で揺さぶられていたとしている[12]

また、前者の説はギリシャ北部から移住したフリュギア人、エーゲ海より侵入した人々、いわゆる「海の民」らがヒッタイトへ侵入、ヒッタイト滅亡の最大の要因となったと推測している説も否定されているわけではない[11]
エジプトにおける海の民の襲撃

エジプト第19王朝末期、エジプトにはマシュワシュ族 (en) 、リブ族と呼ばれる人々が定住しつつあった。彼らはリビュアキュレネからの移民であったが、エジプトの支配の及ばない地域であった。当時の王、ラムセス2世はこれを警戒して砦を築くなどの対策を採っていたが、マシュワシュ族などは商業活動でエジプトと関係していたため、さほど問題は生じておらず[13]、ラムセス2世がヒッタイトと激戦を交わしたカデシュの戦いの際には傭兵として後に「海の民」と呼ばれるシェルデン人 (en) も参加している[14]

しかし、メルエンプタハ王が即位すると風向きが変わった。「イスラエル石碑(英語版)」によるとエジプトで大規模な飢饉が発生したことで、メルエンプタハはリビュア人らを追い返し、1万人近くを切り殺した。さらに非リビュア系のシェルデン、シェケレシュ、トゥレシュ (en) 、ルッキ (en) らの部族も侵入を開始したが、これら移民らの侵入は第20王朝ラムセス3世によってからくも撃退された[13]

しかし、ラムセス3世の治世、さらなる問題が生じた。この問題はリビュアなどの西側ではなくヒッタイトシリアなど東側から生じた。これがいわゆる「海の民」による襲撃であった。ただし、この「海の民」は一部の部族のことではなく、少数民族が集まって部族連合を組織したものであったが、彼らはラムセス3世によって撃退された[13]。これらについてロバート・モアコット (en) によれば全ての部族がリビュアと関係しており、さらに少人数であったとしており、これらはリビュアに雇われた傭兵隊であった可能性を指摘している[8]

さらに「海の民」らの侵入はエジプトに留まらず、シリアの諸都市、ウガリットエマルも破壊された。そしてこの中でもパレスチナには「海の民」の一派であるペリシテ人らが定住することになった。旧約聖書上では否定的に描かれた彼らは実際には優れた都市建築者で鉄器の製造者であり、移住先に先進的物質文化が持ち込まれた[15]
ミケーネ文明の崩壊

紀元前13世紀、ミケーネ文明は繁栄していた。しかし、災厄の予兆を感じていたのかギリシャ本土の諸都市は城壁を整えており、アテナイミケーネでは深い井戸が掘られ、まさに篭城戦に備えているようであった。また、コリントス地峡では長大な城壁が整えられ、ミケーネ文明の諸都市はある脅威に備えていたと考えられる[16]

ミケーネ文明の諸都市、ミケーネ、ピュロス、ティリンスは紀元前1230年ごろに破壊されており、この中では防衛のために戦ったと思われる兵士の白骨が発見された。この後、これらの諸都市は打ち捨てられており、ミケーネ人がいずれかに去ったことが考えられる。このことに対してペア・アーリンは陶器を調査した上でミケーネの人々はペロポネソス半島北部の山岳地帯、アカイアに逃げ込んだとしており、アルゴリス南メッセリアラコニアを放棄してアカイア、エウボイアボイオティアに移動したとしている[17]

また、クレタ島にもミケーネ人らが侵入したと考えられており、ケファレニア島西岸、ロドス島コス島カリムノス島キプロス島に移動している[注釈 3]


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