公用語漢語(中国語)、匈奴語
首都左国城
離石
黎亭
蒲子
平陽
長安
漢王→皇帝
304年10月 - 310年6月劉淵
310年6月 - 310年7月劉和
310年7月 - 318年7月劉聡
318年7月 - 329年8月劉粲
318年10月 - 328年12月劉曜
328年12月 - 329年9月劉煕
変遷
漢の建国304年
国号を趙に改める319年
後趙によって滅亡329年
前趙(ぜんちょう、?音:Qianzhao、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めたため、漢趙、また劉趙とも呼ばれる[1]。また、匈奴によって建国された国家であるため、劉曜による国号改名以前を匈奴漢と呼ぶ研究者もいる[2]。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。 三国時代の魏は匈奴や鮮卑などの周辺民族を傭兵として雇い入れていた。後漢末期に服属した南匈奴の単于の末裔である劉淵は、西晋から匈奴の五部大都督に任じられていた。 西晋では290年4月に司馬炎(武帝)が崩御すると皇族による内紛、いわゆる八王の乱が起こり、劉淵は匈奴の兵力を利用しようとした成都王司馬穎により?に留められて寧朔将軍・輔国将軍・冠軍将軍に任命された[3]。しかし八王の乱が激化すると匈奴内部では自立を図る声が大きくなり、劉淵の従祖父である劉宣は劉淵を大単于に推戴した[3]。司馬穎は鮮卑や烏桓を動かして対立していた東海王司馬越・東?公司馬騰兄弟や安北将軍王浚に対抗するため[3]、304年8月に劉淵を山西に戻したが、間もなく劉淵は離石で大単于を称して自立した[4]。司馬穎が司馬越らに敗れて洛陽に逃れると、10月には漢王を自称し、独自の元号を建てて事実上独立し、漢(前趙)を建国した[4]。国号を漢としたのは、劉淵の祖と漢室の婚姻関係により、また三国時代の蜀の最後の皇帝劉禅に孝懐皇帝と追尊して、さらに前漢の高祖劉邦らの神主を祭って自ら前漢・後漢・蜀漢の後継者と称し、直接的には劉禅の後継者と称した[4]。 劉淵は子の劉聡・親族の劉曜を従えて司馬騰を破り、河東地域を占領した[4]。この勢力拡大の過程で羯族の石勒や漢民族の名族の王弥・劉霊などを従えて并州を攻略するだけではなく有能な人材も手に入れている[4]。308年10月には蒲子において劉淵は皇帝に即位し、309年1月には平陽に遷都した[4]。劉淵は西晋を滅ぼすべく洛陽に何度も攻め入った。だが306年12月に西晋も東海王司馬越の下で懐帝が擁立されて八王の乱は平定されており[5]、漢軍は劉聡を中心にして西晋を攻撃したが、その都度司馬越に敗れて勢力拡大を阻まれていた。 310年6月に劉淵が病死し、長男の劉和が継いだ。だが、暴君の劉和には人望が無く兄弟を排除して地位の安定を図ったため、7月に弟の楚王劉聡が謀反を起こし、劉和は母方の叔父の呼延攸と共に劉聡と内通した部下によって殺された[6]。 劉聡は西晋を滅ぼすべく、現在の河北省・山東省方面の経略に力を注いだ[6]。311年になると西晋内部では懐帝と司馬越が対立し、遂に懐帝は司馬越討伐の勅命を発するに至り、司馬越は逃亡先で間もなく憂憤の内に病死[5]。この混乱の隙を突いて配下の石勒は司馬越軍10万余を殺害し、西晋の抵抗力と統治力を完全に破壊した。そして6月、劉聡は劉曜・王弥・石勒に命じて洛陽を陥落させて宮殿や宗廟を焼き払い、3万人以上を殺し、懐帝を捕らえて平陽に連行し、西晋を実質的に滅ぼした(永嘉の乱)[5][6]。
歴史
建国期
劉淵から劉聡へ
華北の覇者
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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