前田青邨
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前田青邨

前田 青邨(まえだ せいそん、1885年明治18年〉1月27日 - 1977年昭和52年〉10月27日)は、日本画家位階従三位岐阜県中津川市出身。本名、前田 廉造(まえだ れんぞう)。妻は荻江節の5代目荻江露友。三女の夫が美術史家の秋山光和
人物文化勲章授与式、後列中央が前田青邨[1]

青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。

1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する[2]。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院として発足すると芸術院会員となった。

1955年(昭和30年)に、文化勲章を受章するなど、画壇・院展を代表する画家として長年活躍した。

晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わった。その遺志は、弟子の平山郁夫等にも引き継がれている。

かつて岐阜県中津川市苗木に青邨から寄贈された本画や下図などを展示する青邨記念館があったが、2009年に展示物の「富士」と「鮎」が盗まれた。その後、建物の老朽化を理由に2015年6月に閉館した。

青邨の代表作の1つ「洞窟の頼朝」は2010年(平成22年)に重要文化財に指定された。
年譜

1885年(明治18年)1月27日、岐阜県恵那郡中津川村(現・中津川市新町)で出生。食料品屋(乾物屋)を営む父常吉、母たかの次男だった。本名、廉造といった。

1898年(明治31年) 上京し京華中学校に入学するが体をこわして中途退学、帰郷。

1901年(明治34年) 再び上京し、尾崎紅葉の勧めで梶田半古に入門

1902年(明治35年) 半古から「青邨」の雅号を貰う。梶田半古の弟子は小林古径をはじめ雅号に「古」の字を貰うことが多かったが、青邨以降は奥村土牛を含め「古」を貰っていない。同年第十二回日本絵画協会共進会に『金子忠家』出品して三等賞を受賞[3]

1907年(明治40年) 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英とともに研究を続ける。  

1911年(明治44年) 下村観山の媒酌で、荻江節の家元 初代荻江露章こと佐橋章子の妹松本すゑ(荻江露友)と結婚。

1912年(明治45年) 健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。

1914年(大正3年) 再興された日本美術院の同人となる

1915年(大正4年) 朝鮮旅行

1918年(大正7年) 日本美術院評議員に推挙される

1919年(大正8年) 中華民国へ旅行

1922年(大正11年) 事業家・望月軍四郎の援助で小林古径と共に日本美術院留学生として約1年間渡欧。アッシジで観たジョット・ディ・ボンドーネの壁画などイタリア中世の絵画に感銘を受ける。 

1923年(大正12年) 大英博物館にて中国・東晋の名画「女史箴図巻」を模写して帰国(模写は東北大学附属図書館が所蔵)

1930年(昭和5年) 「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞受賞

1935年(昭和10年) 帝国美術院の改革に伴い会員となる。御即位記念献上画「唐獅子」を制作

1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員に推挙される

1943年(昭和18年) 満洲・支那旅行

1944年(昭和19年)7月1日 帝室技芸員に推挙される[4]

1950年(昭和25年) 文化財保護委員会専門審議会委員に就任

1951年(昭和26年) 東京芸術大学日本画科主任教授に就任。翌年より平山郁夫が青邨の助手となり、爾来指導を受けることとなる 

1955年(昭和30年) 文化勲章受章、文化功労者。中津川市名誉市民となる

1956年(昭和31年) 日本美術家連盟会長に就任

1957年(昭和32年) 川合玉堂の後を継いで香淳皇后の絵の指導役となる

1958年(昭和33年) 日本美術院常務理事

1959年(昭和34年) 国立近代美術館評議員

1960年(昭和35年) 訪中日本画家代表団団長

1962年(昭和37年) 東京芸大名誉教授

1964年(昭和39年) 日光二荒山神社宝物館の壁画「山霊感応」完成

1967年(昭和42年) 法隆寺金堂壁画再現事業総監修に安田靫彦と共に就任


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