凡例前田重煕
時代江戸時代中期
生誕享保14年7月24日(1729年8月18日)
死没宝暦3年4月8日(1753年5月10日)
改名亀次郎(幼名)→利安(初名)→重煕
別名又左衛門(通称)
戒名謙徳院殿緝甫尚古大居士
官位従五位下、但馬守、正四位下、加賀守、左近衛権中将
主君徳川家重
藩加賀藩主
氏族前田氏
父母父:前田吉徳、母:民(鏑木氏・心鏡院)
養父:前田宗辰
兄弟宗辰、重熙、利和、重靖、重教、利実
前田 重煕(まえだ しげひろ)は、加賀藩の第7代藩主。加賀前田家8代。第5代藩主・前田吉徳の次男。母は側室の民(鏑木氏・心鏡院)。幼名は亀次郎、初名は利安(としやす)。婚約者に高松藩主・松平頼恭の娘・長姫。吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち2番目の藩主である。 享保14年(1729年)、江戸で生まれる。寛保3年(1743年)1月27日、松平の名字を与えられ、松平亀次郎と称す[1]。延享3年(1746年)、異母兄・宗辰が早世したために跡を継ぐ。のちに将軍・徳川家重より偏諱を授かって利安から重煕に改名する。官位は正四位下、加賀守、左近衛権中将[2]。 その頃、加賀藩では重煕の父・吉徳の時代に厚い信任を受けて藩政改革を行なった大槻伝蔵が、吉徳の死で後ろ盾を失って失脚し、五箇山に流罪に処されていたが、この大槻の存在から加賀騒動が延享5年(1748年)に発生した[3]。先代の宗辰の生母である浄珠院は重煕の養育係を務めていたが、浄珠院の毒殺未遂事件が起こる。この事件は、吉徳の側室真如院の指示によるものとされた。さらに調査するうちに、真如院が大槻と不義密通していたという疑惑に発展した。大槻は寛延元年(1748年)9月12日に配所にて自害した。いわゆる加賀騒動における事の真偽は定かではないが、この事件により加賀藩では混乱が続く。 宝暦3年(1753年)、重煕は25歳で死去する。跡は異母弟の重靖が継いだ。
来歴
系譜
父:前田吉徳(1690年 - 1745年)
母:民、心鏡院 - 鏑木氏
養父:前田宗辰(1725年 - 1746年)
婚約者:長姫 - 松平頼恭の娘
養子
男子:前田重靖(1735年 - 1753年) - 実弟
脚注^ 村川浩平「松平氏下賜の授受具体像と基本的性格」『日本近世武家政権論』189 - 190頁。
^ 『寛政重修諸家譜』、「前田氏」。
^ 『藩史大事典』、「加賀藩」。
表
話
編
歴
加賀前田家第8代当主(1746年 - 1753年)
宗家
利隆
利春
利久
利家
利長
利常
光高
綱紀
吉徳
宗辰
重煕
重靖
重教
治脩
斉広
斉泰
慶寧
利嗣
利為
利建
利祐
利宜