前田 義徳(まえだ よしのり、1906年(明治39年)1月31日?1983年(昭和58年)12月17日)は、日本の放送経営者、ジャーナリスト。
第10代NHK会長。ワンマン会長として組織の拡大充実に努め、『NHK中興の祖』と仰がれた。 北海道旭川市出身。庁立旭川中学校を経て東京外語学校(現東京外国語大学)イタリア語科卒業後、ヨーロッパに留学、ローマ大学法科に学ぶ。 1936年朝日新聞ローマ支局に現地入社、記者としてイタリアのエチオピア侵入(第二次エチオピア戦争)などをスクープ。1947年大阪本社外報部長を最後に退社。 出版社経営を経て1950年、NHKに解説委員として入局。その後報道局長・編成局長・専務理事・副会長などを経て1964年、阿部眞之助会長の在職逝去に伴い会長就任、1973年まで務めた。NHK会長に就任した1964年は、同年に発足したアジア放送連合(現・アジア太平洋放送連合)の初代会長にも就任している[1]。 前田の会長としての主な業績には、総合・教育テレビ、FM放送の全国放送網確立、難視解消、受信料の位置づけ、東京・渋谷の放送センター設置などが挙げられる。また、番組制作・送出におけるコンピュータの導入、衛星放送構想の推進や、吉田直哉・宮田輝・磯村尚徳といった思い切った人材登用など、経営者としての先見性や度量の大きさも見逃せない。 その一方で「ワンマン」と呼ばれたあくの強さや、佐藤栄作ら保守政界との深い結びつきに対しての批判も多かった。佐藤の「NHKはどこだ」に象徴される異例の退陣会見は、内閣官房長官竹下登と前田の事前の打ち合わせに基づくとされている[2]。また、「長髪で騒音を出しまくるGSは出演させない」などと発言したことから、当時、若者層からの反発を招き、1969年の第61回国会逓信委員会で青島幸男議員、森勝治議員に糾弾されたこともあった[3][4]。 退任後は財団法人国民政治協会会長、国語審議会会長、日本体操協会会長、国際政治協会会長、沖縄海洋博総プロデューサーなどを歴任。1976年勲一等瑞宝章、仏レジオンドヌール勲章、伊メリット勲章を受章。
来歴・人物
表
話
編
歴
国民政治協会会長
岩田宙造1961.7-1966.2
村田五郎1966.7-1975.2
前田義徳1975.2-1975.8
江口見登留1976.2-1980.12
松本重雄1980.12-1992.10
神谷健一1992.10-2004.10
稲葉興作2005.1-2006.11
根本二郎2007.1-2008.10
山口信夫2008.10-2009.10
塩川正十郎2009.12-2015.9
大橋光夫2015.11-現在
表
話
編
歴
日本放送協会歴代会長
岩原謙三1926.8-1936.7
小森七郎1936.9-1943.5
下村宏1943.5-1945.4
大橋八郎1945.4-1946.2
高野岩三郎1946.4-1949.4
古垣鉄郎1949.5-1956.6
永田清1956.6-1957.11
野村秀雄1958.1-1960.10
阿部眞之助1960.10-1964.7
前田義徳1964.7-1973.7
小野吉郎1973.7-1976.9
坂本朝一1976.9-1982.7
川原正人1982.7-1988.7
池田芳蔵1988.7-1989.4
島桂次1989.4-1991.7
川口幹夫1991.7-1997.7
海老沢勝二1997.7-2005.1
橋本元一2005.1-2008.1
福地茂雄2008.1-2011.1
松本正之2011.1-2014.1
籾井勝人2014.1-2017.1
上田良一2017.1-2020.1
前田晃伸2020.1-2023.1
稲葉延雄2023.1-
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