前田正名
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前田 正名

生年月日1850年4月23日
出生地 薩摩国 鹿児島
没年月日 (1921-08-11) 1921年8月11日(71歳没)
称号藍綬褒章
元老院議官
在任期間1890年5月31日 - 同年10月20日
貴族院勅選議員
在任期間1890年9月29日[1] - 1897年12月27日
貴族院勅選議員
在任期間1904年8月22日 - 1921年8月11日
第7代 山梨県知事
在任期間1888年6月29日 - 1889年2月27日
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前田 正名(まえだ まさな、嘉永3年3月12日1850年4月23日) - 大正10年(1921年8月11日)は、明治日本官僚男爵。明治政府の殖産興業政策の政策立案と実践した中心人物である[2][3]目次

1 経歴

2 所信

3 日本最大の大地主と植林、造林事業

4 親族

5 栄典

6 脚注

7 参考文献

8 ドラマ化

9 舞台化

10 外部リンク

経歴

薩摩国鹿児島に藩医の子として生まれる。9歳で緒方洪庵門下の八木称平に洋学を学びながら、八木が行なっていた琉球密貿易を手伝う[4]。1865年(慶応元年)に長崎の何礼之の語学塾に藩費留学し、薩摩藩第一次英国留学生の選抜にもれるも、五代友厚より多大な影響を受ける[4]慶応2年(1866年)6月、薩長同盟の密使に加わり、坂本龍馬から短刀を貰う。

明治元年(1868年)『和訳英辞書』(著作?高橋新吉前田献吉、前田正名)を発行。内務省勧農局に出仕し、明治2年(1869年)には在フランス総領事モンブラン伯爵に随行してパリへ留学。しばらくは総領事館となったモンブラン邸に寄宿した。フランス滞在中に普仏戦争パリ・コミューンによる蜂起を体験、この戦争・革命体験で欧州に日本が追い付けることを確信するに至る。

明治9年(1876年)に帰国し、内務省御用掛、翌年には三田育種場を開設。明治11年(1878年)にはパリ万国博覧会事務館長を務めた。

明治12年(1879年)『直接貿易意見一斑』を起草し、
中央銀行の設立

貿易会社の設立

産業カルテルの設立

を提唱した。明治14年(1881年)、大蔵省農商務省の大書記官になって理事官に進む。在職中に国内産業の実情を調査して、殖産興業のために報告書を作り、「興業意見」全30巻にまとめて提出し(1884年12月26日太政官が允可した[5])、この中で民族資本の育成のために日本興業銀行の設立の必要性など訴えた。

明治21年(1888年)6月、山崎直胤の後任で第七代山梨県知事として赴任。山梨県では第五代・藤村紫朗以降に藩閥官僚出身の知事が短い在職期間で交代することが多く、前田は経済官僚としてこうした情勢のなかに赴任した。前田は来任時に箕笠姿で県庁玄関に現れ、吏員を驚かせたとする逸話がある。

前田も山梨県知事としては在職期間が短いため目立った政策は見られないが、栗原信近らと殖産興業を推進し、道路整備や河川改修、甲州葡萄の普及などを行っている。明治政府は殖産興業政策の一環として1877年(明治10年)から明治36年まで内国勧業博覧会を開催し、さらに複数の府県が集まった連合共進会も開催され、各府県から出展された物品の優劣が競われ、山梨県も生糸など絹織物を主に出展していた。


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