前田日明
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

前田晁」あるいは「前田朗」とは別人です。

前田 日明

プロフィール
リングネーム前田 日明
クイック・キック・リー
前田 明
ニックネーム格闘王
スターティング・オーバー
七色のスープレックスを持つ男
スパークリング・フラッシュ
スーパー・デンジャラス・ヒーロー
黒髪のロベスピエール
身長192 cm
体重145.3 kg[1](現役時 115 kg)
誕生日 (1959-01-24) 1959年1月24日(65歳)
出身地大阪府大阪市大正区
所属新日本プロレス
→UWF
→リングス
スポーツ歴空手
少林寺拳法
トレーナーアントニオ猪木
カール・ゴッチ
山本小鉄
藤原喜明
佐山聡
シーザー武志
田中正悟
デビュー1978年8月25日
引退1999年2月21日
テンプレートを表示

前田日明チャンネル
人物
生誕高 日明(コ・イルミョン)
国籍 韓国[2] 日本
公式サイト

前田日明Official (@AkiraMaedaWORLD) - X(旧Twitter)(2016年7月 - )

RINGS.CO.JP(RINGS公式サイト)

グレーテストレスラーズ 前田日明(新日本プロレス公式サイト)

YouTube
別名UWFのカリスマ[3]
チャンネル

前田日明チャンネル

活動期間2019年 -
ジャンルエンターテイメント
登録者数21.8万人
総再生回数5327万回
事務所(MCN)リングス
挨拶どうもみなさん、前田日明チャンネルです
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2020

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-01-21-00002023年1月21日時点。
テンプレートを表示

前田 日明(まえだ あきら、1959年昭和34年〉1月24日 - )は、大阪府大阪市大正区出身の男性総合格闘技プロモーターYouTuber、元プロレスラー元在日韓国人で、韓国名は高 日明(コ・イルミョン、???)。1983年に日本に帰化した。UWFのカリスマと呼ばれる[4]北陽高校卒業。元リングスCEO、元THE OUTSIDERプロデューサー。
来歴
少年時代

少年時代は特撮テレビドラマウルトラマン』に熱中し、1967年4月9日に放送された最終話「さらばウルトラマン」の作中でウルトラマンがゼットンに倒されたシーンを見てショックを受け、ウルトラマンの仇を討つためにゼットンを倒そうと、少林寺拳法を習い始めた[5](小学生で初段を取得)。両親が離婚(後述)する前までは普通の生活をしていたが、両親は戦前生まれであったため食べ物を残すことには厳しく、前田の嫌いなニンジンピーマンは無理にでも食べさせられた[6]

北陽高校時代は空手オートバイに熱中した。オートバイは家庭をほったらかしにして家にあまり帰って来ない父親がいなくても食事にありつく手段に辿り着けるように、父親に無理を言って買わせた[6]。空手は無想館拳心道館長の岩崎孝二から学んで二段を取得し、極真空手大山倍達の弟子たちのようにアメリカで空手道場を開きたいという夢を持っていた。北陽高校の一学年先輩には岡田彰布がいた。大学受験に失敗し、アメリカに行く金を貯めようとアルバイトに明け暮れる[7]。職種は運送業の仕事を中心に行ったといい、たまに長距離トラックの助手となり、運転手に食事を奢ってもらうなどした[6]
新日本プロレス

1977年佐山聡の目に止まり、やがて新日本プロレスへ入門。1978年8月25日、長岡市厚生会館山本小鉄戦でデビュー。デビュー戦は長岡大会当日の試合開始前のトレーニング中に、アントニオ猪木から「本日デビューさせる」と直接告げられた[8]。新日本プロレスの社長兼エースの猪木に憧れて入門したのではなく、「モハメド・アリのジムと提携してるので一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる」と新間寿に言われたのが理由である。金を貯めなくてもアメリカに行け、ベニー・ユキーデと戦うこともできると考えていた[7]。しかし実際には提携の事実はなく、新間が半ばだました形で入団をさせた(当時、ユキーデは新日本の主催興行に出場していたが、前田とは対戦する機会はなかった)。

若手時代当時の夏場の練習に関しては、当時冷房も無く室温が最高40度の高温に達する蔵前国技館愛知県体育館、改装前の大阪府立体育館に適応できるように、47度か48度に達する密閉状態の道場でやらされたといい、しかも当時の時代柄上練習中の水分補給は禁止されていた。あまりに喉が渇くため、トイレの便器の水を飲もうかと迷う程であった。プロレス界の仕来りである1日2食のまとめ食いも、入門前は1日に5食から6食に小分けにして食べていた前田にとっては苦痛であった[6]。入門半年が経過した頃、花見の席でミスター高橋が「お前らこれからなにかとを飲まなきゃいけなくなるから、酒癖が悪いかどうかチェックするぞ」と無理やり前田に酒を飲ませたが、前田は泥酔して包丁を持って暴れたという[6]

体格が大型であることから、新日本からは将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミックのもと、クイック・キック・リー(Kwik-Kik Lee)のリングネームで活躍[9]1983年1月25日にはウェイン・ブリッジ(英語版)を破り、かつてはビル・ロビンソンホースト・ホフマンも戴冠したヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得[10]。英国マットでは、マーク・ロコピート・ロバーツパット・ローチフィット・フィンレイクラッシャー・ブラニガン、マル "キングコング" カーク(英語版)、ジャイアント・ヘイスタックス(英語版)とも対戦した[11]

1983年4月21日の凱旋帰国試合では、ポール・オーンドーフを相手にリバース・アームサルトにてピンフォール勝ちを収めた。5月開幕のIWGP決勝リーグ戦には「欧州代表」として[9]、11月開幕の第4回MSGタッグ・リーグ戦には藤波辰巳とのタッグチームで出場した[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:207 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef