前田山英五郎
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前田山 英五郎

前田山英五郎の版画
基礎情報
四股名喜木山 → 佐田岬 英五郎 → 前田山 英五郎 → 前田山 穎五郎
本名萩森 金松
愛称闘将[1]
稽古の鬼
国際部長[2]
クビになった横綱
前田山の張り手旋風
生年月日1914年5月4日[1]
没年月日 (1971-08-17) 1971年8月17日(57歳没)
出身 日本愛媛県西宇和郡喜須来村
(現:愛媛県八幡浜市
身長180cm
体重120kg
BMI37.04
所属部屋高砂部屋
得意技突っ張り、左四つ、吊り、寄り
成績
現在の番付引退
最高位第39代横綱
生涯戦歴306勝153敗50休(52場所)
幕内戦歴206勝104敗39休(27場所)
優勝幕内最高優勝1回
十両優勝1回
幕下優勝1回
データ
初土俵1929年1月場所[1]
入幕1937年1月場所[1]
引退1949年10月場所[1]
備考
2019年7月13日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 - 1971年8月17日)は、愛媛県西宇和郡喜須来村(現:愛媛県八幡浜市)出身の元大相撲力士。第39代横綱。本名は萩森 金松(はぎもり かねまつ)。
来歴
粗暴の力士、右腕切断の危機

1914年5月4日愛媛県西宇和郡喜須来村で生まれる。喜須木尋常高等小学校を卒業後、1928年高砂一行が高知市へ巡業に来た際、体格の良い金松少年がいるのを見つけた高砂が自ら勧誘した。当時の金松少年は相撲に対して興味を示さなかったが徐々に気持ちが傾き、大工だった兄を頼って上京してその日の夜に高砂部屋へ入門、1929年1月場所で初土俵を踏んだ。金松は入門に関して自惚れのようなものがあり、自分より体の小さい力士がおり、それには勝てるだろうなどと思っていた[3]。入門当時の四股名は、地元にちなんだ「喜木山」で、のちに佐田岬と改名する。しかし、入門当初から粗暴な性格だった[4]ことが災いし、関取に昇進した際には誰一人として化粧廻しを贈る者がいなかった。後年の文献によると、若手時代は酒に酔って騒動を起こしては脱走を繰り返したといい[5]、その粗暴さから高砂が三度も破門を言い渡したとされており、その度に小学校の恩師[6]を始めとする周囲の人物が帰参に奔走したという[2]

1934年のある日、鯱ノ里一郎との稽古中に筋肉炎から右腕を負傷する。その傷口から細菌の感染によって悪性の骨髄炎に罹ったため、右腕切断を検討する程の重症となった。前田和三郎(慶應義塾大学)の数度[注 1][注 2]にわたる懸命の手術で奇跡的に回復すると、これに恩義を感じて四股名を「前田山」へ改めた[1][注 3][7][4]。手術の後遺症も無いまま、1937年1月場所で新入幕を果たすと、1938年1月場所では小結で11勝2敗の好成績を挙げた。当時の大関は鏡岩善四郎ただ一人で、その鏡岩もすでに36歳でこの場所が5勝8敗と不調だった[注 4]事情も手伝って、関脇を飛び越えて大関に昇進した[7][1]
9年間の大関時代 1941年春場所に双葉山を破る

昇進後しばらくは大関として可も不可もなしという成績が続き[7]、下から急成長して来た羽黒山政司安藝ノ海節男照國萬藏らに横綱を先取りされ、彼らの後塵を拝することが多くなった。それでも、1941年1月場所では、羽黒山・双葉山を相次いで張り手戦法で黒星を付けて存在感を示し、「前田山の張り手旋風」と呼ばれた。13日目の双葉山戦ではここまで双葉山に6連敗中であった中、左右から強烈に張りまくり、組み止められながらも力で応戦。最後はうっちゃり気味に吊り出した[8]。双葉山と羽黒山はともに前田山に敗れただけの14勝1敗で、番付上位者優勝制度によって双葉山が優勝、羽黒山が優勝同点だった。この場所は他に名寄岩静男旭川幸之Sにも勝利し、対戦のあった立浪部屋の関取全員に黒星を付けている。双葉山とはこれ以前にも1939年5月場所で、同体取り直しからさらに水入りになる大相撲を取っている。

1942年に高砂が廃業すると、二枚鑑札によって年寄・高砂を継承する。この継承は意外性を以って受け止められたが、後に弟子育成で手腕を発揮したことを考えると先代高砂には先見の明があったということになる[5]1944年11月場所には9勝1敗で初優勝を遂げ、前場所も8勝2敗の星を残していることから横綱に推挙されてもおかしくなかったが、太平洋戦争の戦火が激しくなり、横綱どころではない状況で話題にすらのぼらなかった[7]。こうした境遇もあってか、前田山は実に大関を9年・18場所の長期に渡って務めている。その最中は概ねの流れとして優勝争いにも加われなかった。なかなか優勝できず、横綱昇進どころか関脇陥落の危機まで聞こえるようになった1947年6月場所では、初めて行われた優勝決定戦に進出し、決勝で羽黒山に敗れて優勝同点に終わるも、戦後初の横綱昇進が決定的になる。この時点で前田山は現役19年目、悲願の横綱昇進だった。
クビになった横綱

1948年吉田司家から横綱免許が授与されたが、前田山の性格から前代未聞となる但し書き付き(「粗暴の振る舞いこれありし、時には自責仕る可く候」とのこと)の免許状だった[4]。横綱昇進後は休場が多くなり、横綱在位3場所目で2回以上の休場は昭和以降2人目という不名誉記録を作っている[9]1949年10月場所(当時の秋場所は大阪での開催だった)は初日の力道山戦に勝利しただけで5連敗を喫し、大腸炎を理由に休場・帰京した。

しかし、同年10月15日の夕方に協会へ休場届を提出して病院に戻ると思われた矢先、後楽園球場へ出向いてフランク・オドールと握手したほか、そのままサンフランシスコ・シールズ読売ジャイアンツの試合を観戦した。この時の写真が新聞に大々的に取り上げられ、ただの横綱ではなく二枚鑑札として師匠を兼ねる立場[注 5]であったため、職権乱用の末の不祥事に非難が殺到、急遽帰阪した前田山は14日目以降の横綱土俵入りと千秋楽の取組の出場を希望したが全て却下され、さらに引退勧告を出されてそのまま現役を引退した(シールズ事件)[5][7][10]


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