凡例前田吉徳
時代江戸時代中期
生誕元禄3年8月8日(1690年9月10日)
死没延享2年6月12日(1745年7月11日)[1]
改名勝丸、犬千代(幼名)→利挙(初名)→利興→吉治→吉徳
別名又左衛門(通称)
戒名護國院殿佛鑑法性大居士
墓所石川県金沢市野田町の野田山墓地
官位正四位下、左近衛権少将、若狭守、加賀守、左近衛権中将、参議
主君徳川吉宗
藩加賀藩主
氏族前田氏
父母父:前田綱紀、母:町(三田村氏・預玄院)
兄弟吉徳、利章
妻正室:松姫
前田 吉徳(まえだ よしのり)は、加賀藩の第5代藩主。加賀前田家6代。先代藩主前田綱紀の三男。母は側室の預玄院(町、三田村氏)。前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。 元禄15年(1702年)2月14日、松平姓を与えられ、松平犬千代[2]、のち諱を利挙(としたか)、利興(としおき)と称する[3]。また、同年6月9日に元服し、祖父・光高の従兄弟にあたる第5代将軍・徳川綱吉の偏諱を授かって吉治(よしはる)に改名。宝永5年(1708年)、将軍綱吉の養女(尾張藩3代藩主徳川綱誠の娘)松姫
生涯
吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、足軽出身の大槻伝蔵を重用して改革を行なった(後の巷説では男色相手の寵臣ともいわれる)。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇し(御三家に準ずる待遇)、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったので、綱紀の治世末期から吉徳が家督を継いだ頃には、藩財政の動揺は隠せないものとなっていた。
そこで伝蔵主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税の制定などの改革が行われた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功した。この功績によって、伝蔵に対する吉徳の信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかしこれに対して、改革による質素倹約などの制限や、成り上がり者に過ぎない伝蔵に対する嫉妬などが元で、藩内における保守派や門閥層の間に不満が集まるようになった。
延享2年(1745年)、吉徳は56歳で死去し、跡を嫡男の宗辰が継いだ。その翌年、伝蔵は前田直躬ら保守派によって失脚させられた。そして吉徳と伝蔵の改革が、皮肉にも後の加賀騒動の遠因となった。
吉徳は自身の死の5か月前に生まれた治脩まで10人の男子を残したが、宗辰(長男)は翌年に早世し、以後重熙(次男)、重靖(五男)、重教(七男)、治脩(十男)と都合5代にわたり、兄弟で相次いで家督が相続された。残る5人は早世した。 ※日付=旧暦
官歴
1702年(元禄15)2月、藩世嗣となり、利興と名乗る。6月9日、元服し、将軍徳川綱吉の偏諱を受けて吉治と名乗る。正四位下左近衛権少将兼若狭守に叙任。
1723年(享保8)5月6日、藩主となる。6月15日、加賀守に遷任する。左近衛権少将如元。8月18日、左近衛権中将に転任する。加賀守如元。
1740年(元文5)11月1日、参議に補任。11月16日、吉徳と改める。
系譜
父:前田綱紀(1643年 - 1724年)
母:町、預玄院 - 三田村氏
正室:松姫
側室:浄珠院 以与(江戸浪人・上坂喜信の娘)
長男:宗辰(1725年 - 1747年) - 加賀藩6代藩主
側室:心鏡院 民(江戸芝神明宮神主・鏑木政幸の娘)
次男:重熙(1729年 - 1753年) - 加賀藩7代藩主
三男:稚光院(1731年 - 1731年)
側室:清月院 瀧(江戸浪人・鈴木道一妹)
長女:喜代姫(1732年 - 1750年) - 広島藩主浅野宗恒室
側室:真如院 貞(江戸芝神明宮神主・鏑木政幸の娘)
次女:総姫(1733年 - 1758年) - 富山藩主前田利幸室
四男:利和(1735年 - 1759年)