前田 利為
まえだ としなり
生誕1885年6月5日
日本・東京府
死没 (1942-09-05) 1942年9月5日(57歳没)
日本・ボルネオ島沖
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1905年 - 1942年
最終階級 陸軍大将
出身校陸軍大学校
子女前田利建
親族前田利嗣(養父)
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前田 利為(まえだ としなり、1885年(明治18年)6月5日 - 1942年(昭和17年)9月5日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸士17期・陸大23期恩賜。最終階級は陸軍大将。旧加賀藩前田家第16代当主。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵。 旧七日市藩知藩事・前田利昭子爵の五男として生まれる。初名は茂。1900年(明治33年)1月、前田宗家第15代当主の前田利嗣侯爵の婿養子となり、6月13日に家督を相続する。1910年(明治43年)6月4日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任[1]。1916年(大正5年)11月5日、藍綬褒章を受章[2]。1926年(大正15年)に公益法人育徳財団(後の前田育徳会)を設立した。 先妻は15代当主前田利嗣の長女・前田漾子
経歴
陸軍将校を志し、学習院を経て、1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校(17期)を卒業し、歩兵将校となる[4]。近衛歩兵第4連隊附[4]。陸士17期の同期生には東條英機がいる。
1911年(明治44年)11月29日 、陸軍大学校(23期)を卒業し、成績優等(3位)により恩賜の軍刀を拝受[5]。1913年(大正2年)ドイツに私費留学、その後、イギリスに渡る。
1923年(大正12年)8月7日、近衛歩兵第4連隊大隊長に就任。1927年(昭和2年)7月26日から1930年(昭和5年)8月1日まで駐英大使館附武官となる。その後、近衛歩兵第2連隊長となる。1933年(昭和8年)3月に陸軍少将に進級すると同時に陸大教官[4]。同年8月、歩兵第2旅団長[4]。1935年(昭和10年)3月、 参謀本部第四部長[4]。1936年(昭和11年)8月、陸大校長[4]。同年12月、陸軍中将に進級した[4]。
1935年(昭和10年)1月24日、歌会始への奉仕を行う[6]。
1937年(昭和12年)8月、第8師団長に親補される[4]。1938年(昭和13年)12月に参謀本部付となり、翌1939年(昭和14年)1月に予備役に編入された[4]。
1942年(昭和17年)4月、召集されてボルネオ守備軍司令官に親補される[4]。同年9月5日 、ボルネオ沖で搭乗機が消息を絶った。後に乗機の残骸と利為の遺体が発見されたが、利為の搭乗機の遭難原因は判明しなかった[7]。佩用していた名刀「陀羅尼勝国」はくの字に曲がっていたという。正二位に叙され、陸軍大将に親任される。
当初、利為の死は「陣歿」(殉職)と発表された。戦時においても軍人の事故による死亡は「陣歿」の取り扱いであった(例:古賀峯一)。
当時の相続税法第7条は「戦死又は戦病死による相続の場合には相続税を課さない」となっており、巨額の資産を持つ前田家にとって利為の死が「戦死」と「陣歿」のどちらの扱いとなるかは大問題であった。小田部雄次は、その著書の中で、利為はかねてから東条英機と折り合いが悪かったため、相続税を目当てに故意に陣歿扱いにされたのではないかと帝国議会で取り上げられ、河田烈蔵相が「陸軍のお指図次第」と答弁して利為の死は「戦死」の取り扱いに変更され[8]、前田家は相続税を課されることを免れた[9]としている。また半藤一利は、帝国議会の決議により「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」との帝国議会の決議により相続税が課されなかったとする[10]。両者の著作はいずれも参考文献の記載がなく、また帝国議会における答弁や決議の日付もないために検証が困難である。ただし河田烈蔵相は、第2次近衛内閣の蔵相で、その在任は1940年(昭和15年)7月22日から1941年(昭和16年)7月18日であるから、時期的にありえないことになる。問題が議論されたときの蔵相は、賀屋興宣である。「東條英機#前田利為中将の陣没を巡る紛議」を参照 陸士で同期でありながら、利為より4年遅れで陸大を卒業した東條英機とはそりが合わず、利為が東條を「頭が悪く、先の見えない男」[11]と批評し、東條が利為を「世間知らずのお殿様」[11]と揶揄する間柄であった[11]。利為は首相になった東條を「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんでいた[12]。 利為の戦死後、葬儀委員長は東部軍司令官中村孝太郎大将、副委員長は参謀次長田辺盛武中将と陸軍省軍務局長佐藤賢了少将(すべて石川県出身)。参列者は、林銑十郎、阿部信行、小栗大将、氏家中将、伍堂中将らの旧加賀藩士。
人物・逸話