前田利常
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 凡例前田 利常
前田利常肖像(那谷寺所蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕文禄2年11月25日1594年1月16日
死没万治元年10月12日1658年11月7日[1]
改名猿千代・犬千代(幼名) → 利光(初名) → 利常
別名松平筑前守、小松中納言
戒名微妙院殿一峯克巌大居士
墓所野田山墓地
官位従四位下侍従筑前守右近衛権少将参議従三位権中納言肥前守、贈従二位
主君徳川家康秀忠家光家綱
加賀藩
氏族前田氏
父母父:前田利家、母:東丸殿
養父:前田利長
兄弟、利長、蕭、摩阿、与免、利政千世知好、利常、利孝、保智、利貞利豊
妻正室:珠姫徳川秀忠の娘)
側室:古和、栗、五条局、京極方、寺尾氏
光高利次利治利明亀鶴姫森忠広室)、満姫浅野光晟室)、富姫八条宮智忠親王妃)、春姫(本多政長室)、松姫(松平定重室)、久万姫(保科正経室)他
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前田 利常(まえだ としつね)は、江戸時代初期の武将大名加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。
生涯
幼少期から家督相続まで

文禄2年(1594年)、加賀藩祖・前田利家の庶子(四男)[2]として誕生した。母は側室東丸殿(寿福院)[2]。利家56歳の時の子である。利家が豊臣秀吉文禄の役肥前名護屋城に在陣していた時、下級武士の娘であった東丸殿は侍女として特派されたが、その際に利家の手がついて生まれたのが利常である[3]。幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられる(長種の妻は長姉の幸姫)。父・利家に初めて会ったのは、父の死の前年の慶長3年(1598年)に守山城を訪ねた折りのことで、利家は幼少の利常を気に入り、大小2刀を授けた。

慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いののち、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城丹羽長重人質となった[2][4]。この人質として小松城内に抑留されていた際、長重が利常に自ら梨を剥き与えたことがあり、利常は晩年まで梨を食べるたびにこの思い出を話した、という逸話が残っている。同年、跡継ぎのいなかった長兄・利長の養子[注釈 1]となり、を利光(としみつ)とし、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えた(この時珠姫はわずか3歳だった)[注釈 2]徳川将軍家の娘を娶ったことは、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになる。

慶長10年(1605年)6月、利長は隠居し、利常が家督を継いで第2代藩主となる[2]。4月8日、松平名字本姓を与えられる[7]。しかし利常は父以来の菅原姓にこだわり固守したと伝えられている[8]。同年、幕府は利常(当時は利光)宛「領知判物」にて119万2760石を前田家の朱印高とした[9]
藩主時代

利常は同母の兄弟がおらず、全て異母兄弟であった。このためすぐ上の兄である知好、末弟の利貞らと協調することができなかったり、利家の正室である義母芳春院(まつ)と生母寿福院が前田直之(次兄・利政の子で芳春院の孫)の処遇をめぐって対立するなど内憂に苦しめられた[8]

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では徳川方として参戦した。10月12日に利常は江戸から金沢へ到着し、同月14日に大坂を目指して出陣するが、この際に士気高揚のため門出に際して「軍神への生贄」として不届きな御馬取りが殺害されたと伝わる[8]。11月17日、利常は住吉で家康に謁見し、阿倍野に陣を布いた[8]。前田軍の規模は徳川方の中でも最大の動員兵力で、2万以上はいたといわれる[8]。前田軍は大坂方真田信繁軍と対峙した(真田丸の戦い[8]。家康は大坂城を包囲して心理的圧力を加える腹積もりだったため、家康は利常に攻撃命令を下さなかったが、家康と姻戚関係にある利常は功に焦り、12月4日丑刻(午前2時頃)に軍令に反して独断で真田丸に攻撃をかけ[8]井伊直孝松平忠直らの軍勢と共に多数の死傷者を出して敗北した[10]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに大阪物語の原文「松平筑前守は、大守の陣崩れば、横合に鑓を入れんと、堅く陣を張つておはしけるが、諸方の陣崩れけれども、少しも備を崩さず、槍衾を作つておはしければ、大御所は御覧じて、さすがに度々の功名を極めし、利家が子なりと仰せられけり。」があります。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月6日に家康から岡山口(四條畷市)の先鋒を命じられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍である秀忠の軍勢が置かれた[10]。5月7日正午、前田軍1万5000人は大坂方の大野治房軍4000人と戦い、苦戦しながらも勝利した[10]。この時、前田軍は松平忠直軍に次いで3200の首級をあげ[10]、『大坂両陣日記』では直参・家中213人が敵を討ち取り、首級は258、雑兵を含む首級の数は3000余とある。


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