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基本情報
本名前田 光世(旧名)
オタービオ・ミツヨ・マエダ(帰化後)
通称コンデ・コマ
国籍 日本
ブラジル
生年月日1878年12月18日
出身地 日本
青森県弘前市
没年月日
(1941-11-28) 1941年11月28日(62歳没) ブラジル
パラー州ベレン
身長164 cm
体重70 kg
バックボーン柔道 本覚克己流
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前田 光世(まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 - 1941年11月28日)は、講道館黎明期の柔道家(7段)である。ブラジル帰化後の本名はオタービオ・ミツヨ・マエダ。1908年にスペインで得た通り名コンデ・コマ(Conde Koma)の名でも知られていた。グレイシー柔術の祖。
来歴早稲田中学時代の前田(左)。右端は押川清。中央は古川重素(のち樺太に渡り新聞社社長、樺太本斗町町長)
青森県中津軽郡船沢村(のちの弘前市)出身。1895年 明治27年、青森県第一中学校(青森県尋常中学校)(のちの青森県立弘前高校)に入学、運動委員の一員として同校の柔術部創設に関わったことで、旧弘前藩の柔術師範である斎藤茂兵衛(本覚克己流)への師事も指摘される。
同校を中退して上京し、翌年早稲田中学(のちの早稲田高校)に入学する。入学後は相撲や野球で名を馳せた、東京専門学校(のちの早稲田大学)に柔道場が新設されたことをきっかけに講道館柔道に出会い、1897年6月には講道館に入門し、柔道に打ち込む。同校は、渡米前1904年に中退した。
講道館に、入門してからは講道館四天王の1人である横山作次郎などに鍛えられ、めきめきと頭角をあらわし、昇段審査(初段)の時には嘉納治五郎講道館初代館長の命により前田のみ15人抜きを命ぜられる(見事これを達成)。
嘉納治五郎が学習院の教授を務めていたことから、古くから柔道教育が盛んであった学習院にて、明治34年(1901年)4月から明治37年10月(1904年)学習院で柔道助教を務める。
この頃、その実力を若き日の佐村嘉一郎や轟祥太と並んで「講道館三羽烏」とも称される。
講道館4段位にあった1904年11月、柔道使節の一員として宣揚柔道の旅に出て、二度と日本に戻ることはなかった。
故郷に暮らす最初の妻古川タカと協議離婚しての渡米だった。
渡米にあたって前田は後に首相になった衆議院議員犬養毅から日本刀「長船」を贈られた。渡米後は滞在費稼ぎや柔道普及のために異種格闘技戦を断行、対戦相手を求めてアメリカ中を周りボクサーやプロレスラー、拳法家などと戦う。なおその頃に、自分の名前を栄世(ひでよ)から光世に改名している。
ある日、親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の1人富田常次郎が、体重約160 kgの巨漢選手に敗れてしまう(これに関して前田は、「ルールの違いによって敗れた」「富田は苦戦の末引き分けた」など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。日本柔道の威厳を示すべく雪辱を誓った前田はアメリカに残り、1000ドルという賞金を餌に再びアメリカ全土を周り、挑戦してくるボクサーなどを片っ端から退ける。アトランタでは世界一の力持ちと恐れられたブッチャー・ボーイさえも破っている。その後はメキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行い、ブラジルに辿り着く。この間2000勝以上し、柔道衣着用の試合では終に無敗であった。なお興行試合に出たことで講道館を破門されたとの説が流布している[1]。増田俊也は自著で「三年間の出入り差し止め」が本当のところでブラジルに入る前に破門が解け5段に昇段してる、としている[2]。海外での前田の活躍が当時の日本国内に紹介されるに際し、同じように海外に渡り柔道普及のために異種格闘技戦を行っていた佐竹信四郎、伊藤徳五郎、大野秋太郎と並んで、「玖瑪(キューバ)の四天王」(「海外四天王」)とも呼ばれた。
コンデ・コマ前田光世
イベリア半島に滞在している際、前田はコンデ・コマのリングネームを用いるようになった。その由来については諸説ある。コンデはスペイン語で伯爵を意味する。前田自身がヨーロッパの新聞にコンデという称号を持つ自らのリングネームについて次のように語っている。
「スペインのある有力者が私の勝利、物腰や態度に感銘を受けてこの称号を授けてくれたんです。すぐにこちらの方が本名よりも有名になってしまいました」
コンデ・コマのコマは前田がいつも金に困っているのを皮肉って日本語の「困る」から取ったとも言われている。別の説として、北杜夫は小説『輝ける碧き空の下で』においてスペインで朝鮮人(高麗)と間違えられたという由来を紹介している。角田房子は自著で日韓併合のニュースと結びついてこのリングネームになったのだとしている[3]。晩年には前田自身が自らの名を「高麗」と記した手紙もある。
前田はコンデ・コマの呼び名を気に入って、後に自らの技を広めるためにこの名前を使うようになった。
日本側の文献には前田がブラジル帰化後に本名をコンデ・コマとしたとするものが存在するようであるが、ブラジル側の文献によれば帰化後の本名はオタービオ・ミツヨ・マエダである。 前田は1914年11月14日にブラジルのリオ・グランデ・ド・スル州ポルト・アレグレ市に到着し、そこでブラジル到着後最初の柔道の実演を行なった。その後、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、サルバドール、レシフェ、サン・ルイス、ベレン、マナウスなどを巡った。 前田は1915年12月20日にベレンに到着し、ポリテアマ劇場でベレンにおける最初の実演を行った。地方紙オ・テンポはコンデ・コマが柔術の主要な技を紹介する予定であるとイベントを紹介している。前田はこの際に護身術の紹介もした。その後前田の一行は希望者の挑戦を受けて柔術による熱戦が行われた。 オ・テンポ紙によれば前田は1915年12月22日に同行の佐竹信四郎と対戦した。同じ日にグレコローマン式レスリングのチャンピオンのナジブ・アセフが前田に挑戦したものの、この日の対戦は実現しなかった。1915年12月24日に前田はボクサーのバルバディアーノ・アドルフォ・コルビニアーノを倒し、かれは前田に弟子入りした。1916年1月3日に前田はポリテアマ劇場でナジブ・アセフと対戦し、ナジブ・アセフを舞台の外に投げ飛ばした。 1916年1月8日に前田は佐竹と別れ、イギリスのリバプールに向かった。イギリス、ポルトガル、スペイン、フランスを旅して、1917年にひとりで再びブラジルに戻ってきた。 ブラジルに戻った前田はフランス名誉領事の娘オルガを妻に迎え、子どもも作ったものの、妻と子どもは2年ほどで相次いで亡くなった。なおこの結婚は日本の戸籍に記載がない。 1918年から1919年にかけて、前田は「足捌き」の異名で知られた著名なブラジル人カポエリスタの挑戦を受け、かれが試合でナイフを使うことまで認めた。カポエリスタは身長190センチ、体重は100キロで、武器まで使っていたのに、前田の柔道に敗れた。1921年に前田はベレンのスポーツクラブ内にかれにとってブラジルで最初の柔道場を開いた。この柔道場は4メートル四方の倉庫の中にあった。後に前田の柔道場は消防隊本部に移転し、それからアパレシーダ教会に移った。
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