公用語鮮卑語、漢語(中国語)
首都棘城→龍城→薊→?
燕王→皇帝
337年 - 348年慕容?
348年 - 360年慕容儁
360年 - 370年慕容?
変遷
建国337年
東晋より自立352年
前秦によって滅亡370年
前燕(ぜんえん、?音:Qianyan、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容?によって建てられた国。正式な国号は大燕だが、同時代に燕を国号とする国が複数存在するため、最初期に建てられたこの国を前燕と呼称して区別している。独立国として成立したのは慕容儁が帝位に即いた352年であるが、本記事中では慕容?が燕王を自称した337年を建国年とする(詳細は後述)。また、事実上前燕の基盤を築いたのは慕容?であるため、彼の時代より詳述する。 鮮卑族慕容部の首長慕容?は西晋に服属して鮮卑の他の部族(宇文部・段部)と抗争して勢力を拡大し、西晋より鮮卑都督の地位を与えられた[1]。慕容?は遼西に定住して農耕生活を進め、西晋の制度を導入して社会の安定に努めた[1]。だがその西晋が八王の乱などで衰退すると、307年には鮮卑大単于を自称して自立の道を歩みだした[1]。309年12月に西晋の遼東郡太守が東夷校尉を殺害するという内紛につけこんで慕容?は自ら遼東の治安秩序の維持に成功した[1]。折りしも西晋国内では永嘉の乱が激化していた頃であり、311年6月に洛陽が陥落して西晋が実質的に滅亡すると、漢族には流民として遼東に逃げる者も多く、慕容?は流民の受け入れに積極的に対処して中原文化の導入、農耕技術の進展、人材の確保に成功した[2]。慕容?は独自の政権機構を整備するなど実質的には自立していたが、彼自身は西晋・東晋を尊重して東晋には臣下の礼をとり、これと連携することで遼東と遼西の制圧、後趙との対抗などを行なった[2]。 333年5月に慕容?は死去し、子の慕容?が跡を継ぐ。しかし同母弟の慕容仁が認めずに反乱を起こし、2年以上にわたって続いた[2]。弟の反乱を平定した慕容?は337年9月に燕王に即位した[2]。正確にはこれが前燕の成立である[3]。 慕容?も父親同様に東晋の宗主権を承認し、正式に東晋による王位授与を求めて341年に実現した[3]。337年11月に鮮卑段部、338年5月に後趙の攻撃を受け、特に後者は内通者を出すまで苦戦となったが、慕容恪が奇襲をかけて撃退し、中原の支配権をめぐって後趙と争った[3]。この勝利で前燕は後趙に逆進攻をかけるようになり、340年10月には後趙領の高陽まで侵略してかつての段部の領域と3万戸を獲得、342年に慕容?は龍城(現在の遼寧省朝陽市)に遷都した[3]。東方では高句麗と対戦し、339年9月の侵略を手始めに、342年には攻勢をかけて高句麗の首都の国内城(現在の吉林省集安市)を破壊して故国原王の母と妻を捕縛する大戦果を挙げたため、343年に高句麗は前燕に服属した[3]。344年1月には宇文部を滅ぼし、中国の東北方面に確固たる地盤を築いたのである[3]。 慕容?は348年9月に死去し、第2代には子の慕容儁が継いだ[3]。349年に石虎が死去した後趙では皇位をめぐる内紛が激化し[3]、それを見て前燕は350年1月から20万の大軍を動かした[4]。後趙は迎え撃つどころか石虎の養孫の冉閔の反乱が起こり大混乱状態であったため、薊・范陽などを占領下に置いた。後趙滅亡後の352年4月、慕容恪を冉魏征伐に向かわせ、これを滅ぼし、後趙領の東部を占領下に置いた[5][4]。この勢力拡大を背景にして、慕容儁は352年11月に中山で皇帝を称して元璽という年号を立て、東晋から送られていた使者を追放して東晋からの事実上の独立を宣言した[4]。 その後、前燕は慕容恪の指揮の下で後趙や段部の残党を平定し、357年には?(現在の河南省臨?県)に遷都した[4]。
歴史
建国期
創設期
全盛期
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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