前橋城
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群馬県
前橋城の航空写真
(1980年度撮影・国土航空写真)
別名厩橋城
城郭構造輪郭式平城
天守構造3重3階(非現存)
築城主長野方業松平直克
築城年15世紀末、文久3年(1863年
主な改修者酒井重忠
主な城主上野長野氏上杉氏平岩氏
酒井氏越前松平氏
廃城年1871年
遺構石垣、土塁、堀
指定文化財前橋市指定史跡「前橋城車橋門跡」[1][2]
前橋市指定重要文化財「前橋藩酒井家前橋城絵図 附 上野国絵図ほか関係資料」[1][3]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度23分32.54秒 東経139度3分41.69秒 / 北緯36.3923722度 東経139.0615806度 / 36.3923722; 139.0615806 (前橋城)座標: 北緯36度23分32.54秒 東経139度3分41.69秒 / 北緯36.3923722度 東経139.0615806度 / 36.3923722; 139.0615806 (前橋城)
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前橋城

前橋城(まえばしじょう)は、群馬県前橋市上野国群馬郡)にあった日本の城平山城)。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。車橋門の跡が前橋市の史跡に指定され、酒井氏に伝わる城絵図が市指定重要文化財に指定されている[1]
概要

利根川広瀬川を外堀とする渦郭式の平城で、周囲に城下町が発展し、今日の前橋市中心街となった。前橋城は江戸時代には前橋藩の藩庁ともなったが、その一方で、暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に始終翻弄された。
歴史・沿革
室町時代・安土桃山時代

前橋はその旧名を厩橋[4]といった。このため前橋城は当初、厩橋城と呼ばれていた。城の起源については諸説あるが、室町時代中期の15世紀末頃に長野氏の拠点であった箕輪城の支城として築かれた石倉城がその始まりであるとされる。

伝承では、石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れていた利根川の本流が、天文3年(1534年)の氾濫により流路を変え石倉城の水路に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と呼ばれるようになったという。ただしこの厩橋長野氏の系譜ははっきりせず、厩橋の長野氏で築城者とみられる初代の人物も、法号の固山宗賢としか判明しない。学説上で明らかなのは長野氏によって築城されたことのみである。

貞享元年(1684年)編纂の『前橋風土記』は、厩橋城は延徳元年(1489年)に固山宗賢、長野左衛門尉により築城されたとする[5]。固山宗賢の俗名を、長昌寺の記録では長野方業とし、橋林寺の記録では長野景信とする[6]。『前橋風土記』はさらに2代目城主を長野道安、3代目城主を道安の子長野弾正入道道賢、4代目城主を長尾賢忠、5代目城主を永禄5年(1562年)に長尾輝虎に従い長尾賢忠を殺害した北条安芸守芳林(北条高広)とする。

確実な史料により判明するのは、大永7年(1527年)の長尾顕景より長尾為景宛書状「厩橋宮内大夫」、天文2年(1533年)の快元僧都記「長野宮内大夫」、永禄10年(1567年)の由良文書中の天文10年(1541年)「厩橋賢忠」、永禄3年(1560年)の関東幕注文における厩橋衆「長野藤九郎」「同彦七良」である。

以上の史料から『前橋市史』では、『前橋風土記』が長尾景虎が厩橋城に進出した時期の厩橋城主を長尾氏とするのは誤りとする[7]

天文20年(1551年)、厩橋城は上野国に侵攻した後北条氏に付いた。一説には城主の長野賢忠が城を明け渡し長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りに越後へ移ったという。なお、石倉城を破壊した利根川はこの天文年間までに厩橋城の西へと流路を完全に移している。

永禄3年(1560年)、景虎の長尾軍が厩橋城を攻め取り、河田長親が城代となる。この際に厩橋長野氏を中心とする厩橋衆は分解した。以降、厩橋城は景虎の関東進出の足掛かりとされた。永禄6年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされる。年代に諸説あるが、この時期に厩橋長野一族は、上杉家の家督を継いだ景虎改め政虎に断罪され粛清された。賢忠が病気を理由に攻防戦に参陣しなかったからとも、玄忠(賢忠?)の子・彦太郎の馬が暴れたのを謀反と勘違いされた、などの伝承が伝わる。長野氏の混乱は、上杉家の謀略だったともされる[8]。城はその後、再び上杉家に取り戻され、越後の北条高広が城代に据えられた。だが永禄10年(1567年)にはその北条高広が北条陣営へ寝返ったことにより、周辺は再び北条家の勢力圏となる。

その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡された。高広は謙信の死後の天正7年(1579年)、御館の乱で越後の本拠地を失い、勝頼率いる武田氏に降伏した。引き続き厩橋城代として残るも、天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされ、織田方の滝川一益が上州を支配することとなり、高広は滝川に厩橋城を引き渡した。同6月の本能寺の変の後、神流川の戦い北条氏直に敗れた一益は上州から撤退した。北条高広や上杉氏らのせめぎ合いの末、上州の大半および厩橋城は後北条氏の元に入った。天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐に際し、豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年8月、関東を任された徳川家康の支配するところとなり、家臣平岩親吉を厩橋城に置き、3万3千石を与えた。
江戸時代酒井氏時代の前橋城を描いた絵図。元禄15年(1702年)の利根川の瀬替え以前の様子を示している。

関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)2月、甲府藩に移された親吉に代わって酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営された。17世紀中頃から18世紀初頭、忠清から忠挙の代に、厩橋の地は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。しかし、大老酒井忠清を出すほどの名門が置かれたのとは裏腹に、前橋城は利根川の浸食を受け続け、前橋藩は外曲輪角櫓の取崩し(元禄12年(1699年))、利根川の瀬替え(元禄15年(1702年))、川普請(正徳4年(1714年))といった工事に出費を強いられた。宝永7年(1710年)には所領の分散等と並んで「川欠けにより前橋城が次第に狭くなりつつあること」を理由に元藩主酒井忠挙が老中に転封を願い出ている。

寛延元年(1748年)、被害が本丸にも及び、藩主酒井忠恭はやむなく住居を三ノ曲輪に移転させる普請を幕府に申請し、許可を得て同年12月に地鎮祭を行った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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