前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす[1]。
主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる[1]。 奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の方形の陸橋部を持つ円形周溝墓が発見されており、前方後円墳の原型である可能性が指摘されている[2]。 2世紀後葉に大和地方の纒向(現・奈良県桜井市)に巨大造営都市が出現し、それとほぼ同時期に纒向石塚古墳を始めとする纒向型前方後円墳が築造される。3世紀中葉には一つの画期として最古の前方後円墳とされる箸墓古墳が築造され、これをもって古墳時代の始まりとされるようになった。 大和政権の勢力下にある日本列島の諸地域(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられている。 最もよく知られているものは、弥生時代の墳丘墓(弥生墳丘墓)から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓
歴史
起源と拡散
それに対して、各地方政権の墳墓の糾合によるという説もある。例えば「形」は播磨の前方後円型墳墓から、「葺石」は山陰地方の四隅突出型墳丘墓から、というように、弥生時代に造られていた各地方政権の墳墓の諸要素を糾合して、大和政権が前方後円墳を考案したという[3]。
ギャラリー
瀬田遺跡(奈良県橿原市)の円形周溝墓
画像左奥の円形部から右手前方向へ陸橋が伸びる。
箸墓古墳(奈良県桜井市)最古の前方後円墳とされる(3世紀中頃の築造か)
終焉丸山古墳(奈良県橿原市)一説に大王墓としては最後の前方後円墳(6世紀後半の築造)。
6世紀になると前方後円墳の造られ方に変化が生じてくる。関東地方以西ではほとんどの前方後円墳の規模が縮小し、墳丘長100メートル以上の規模の比較的大きなものは九州の岩戸山古墳、尾張の断夫山古墳など一部を除くと、奈良盆地内や古市古墳群など、畿内に集中するようになる。
また岩戸山古墳と断夫山古墳、そして畿内でも大王墓の可能性が高い古墳とその他の古墳との規模の格差が拡大している。これは当時の社会体制の変化を表しているものと考えられ、特に河内大塚山古墳、丸山古墳、今城塚古墳といった大王墓と見られる古墳の規模は他を圧しており、これまでの有力首長の共同統治から大王への権力の集中が始まったものと見られている。丸山古墳など6世紀の大王墓と推定される墳墓は、3世紀から大王墓が造られ続けてきた古市古墳群、百舌鳥古墳群、馬見古墳群、佐紀盾列古墳群、大和・柳本古墳群といった古墳群から離れた場所に造られており、この点からも6世紀の大王の権力構造に変化が生じたことがわかる。
また前方後円墳の形式にも変化が生じ、陪塚が見られなくなり、葺石の使用も少なくなり、墳丘の段築も3段が基本であったものが2段に減少する。そして関東地方を除くと埴輪も使用されないようになっていく。つまり6世紀の前方後円墳は大きさばかりではなく視覚的な見栄えも低下しており、当時の社会における前方後円墳そのものの位置づけにも変化が起きてきたと考えられる[4]。
一方、関東地方では他の地方とは異なり、6世紀、埼玉古墳群など墳丘長100メートルクラスを含む前方後円墳が盛んに造られる。埼玉古墳群では長方形をした二重周濠の築造、下野の前方後円墳では基壇と呼ばれる広い平坦面を持った前方後円墳など、地域色が見られる前方後円墳が造られており、6世紀の段階ではまだ全国一律の造墓規制を行う段階には至っていない。
前方後円墳の出現期から、大王陵と見られる大型の古墳を始めとする多くの前方後円墳が集中的に造られてきた畿内の古墳群では、6世紀半ばに古市古墳群で前方後円墳の築造が終了した後、前方後円墳は造られないようになり、6世紀後半になると、全国各地で前方後円墳が造られないようになっていく。大王陵としても6世紀後半に造営されたとみられる丸山古墳か梅山古墳、または太子西山古墳を最後に前方後円墳から方墳へと変わった。関東地方や周防など[5]、一部の地域で7世紀初めから前半まで前方後円墳の築造が続いたケースもあるが、おおむね6世紀末までに前方後円墳の築造は終了し、その後、首長墓は主に円墳ないし方墳に移行し、大王墓など一部の首長墓は八角墳などの多角形墳に移行する。
『日本書紀』孝徳天皇の大化2年(646年)三月甲申(こうしん)の条に長文の詔がある。造墓の制限や禁止に関するもので、一般に「大化薄葬令」と呼ばれているものである。文献上の信憑性については、研究者の間で論議のあるところである。「大化薄葬令」が引用している『魏志』の武帝紀や文帝紀の薄葬主義は、墳丘の造営を一切否定するものである。「大化薄葬令」は、王以上、上臣、下臣だけが墳丘の造営が認められ、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)以下小智(しょうち)の墓は、小石室をつくることは認められるものの、墳丘の造営は認められなかった。このことから徹底した薄葬ではなく、不完全な薄葬であったことが分かる。 前方後円墳がそうであったように、身分を現すものとしての考えが残っている。「大化薄葬令」には、庶民は「地に収め埋めよ」とある。木棺に遺骸を入れるか、直接土に埋めるかのどちらかで、土壙墓(どこうぼ)を指しているのであろう。詳細は薄葬令を参照。
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また、火葬の普及も古墳の矮小化に拍車をかけることとなり、結果、大規模な前方後円墳の造営は行われなくなった。そして、円墳と方墳を平面的につなぎ合わせた前方後円墳は、円墳と方墳を立体的につなぎ合わせた上円下方墳(下段が方墳、上段が円墳)に取って代わられることとなった[要出典]。上円下方墳は近代以降の天皇家の陵墓にも採用されており、昭和天皇の武蔵野陵もこの形状である(上円部2段・下方部3段から成る)。
分布角塚古墳
(岩手県奥州市)
日本最北端の前方後円墳。塚崎51号墳
(鹿児島県肝属郡肝付町)
日本最南端の前方後円墳。光州月桂洞1号墳
(韓国光州広域市)
朝鮮半島南部の前方後円形墳の1つ。
日本列島に広く分布し、その数は約4,800基[6]、あるいは約5,200基[7]ともいわれる。列島内の分布の最北端は岩手県奥州市の角塚古墳、最南端は鹿児島県肝属郡肝付町の塚崎古墳群第51号墳(別名・花牟礼古墳)とされ、前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道・青森県・秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎない。築造時期や個数には幅があるものの、他の43の都府県では数百基から1、2基の前方後円墳が知られており、そのうち最多は千葉県の約720基[6]。離島の対馬、壱岐、隠岐などにも存在する一方で、これまでのところ淡路では存在が確認されていない。各地域で最後に築造された前方後円墳はその時期にほとんど差がないことが判明している。