前川國男
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前川國男
生誕
1905年明治38年)5月14日
新潟県新潟市中央区学校町通2番町
死没 (1986-06-26) 1986年6月26日(81歳没)
東京都港区虎ノ門
国籍 日本
出身校東京帝国大学
職業建築家
受賞日本建築学会賞作品賞
(1953年・1955年・1956年・1961年・1962年・1966年)
日本建築学会賞大賞(1968年)
日本芸術院賞(1974年)

所属前川建築設計事務所
建築物東京文化会館
東京海上火災ビル

前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 1986年6月26日[1])は、日本建築家
人物

ル・コルビュジエアントニン・レーモンドの元で学び、モダニズム建築の旗手として、第二次世界大戦後の日本建築界をリードした。丹下健三木村俊彦は前川事務所の出身であった。

近代建築を最初に生み出した西ヨーロッパからみれば前近代的であった日本に、真正の近代建築を根付かせるという使命を自らに課すことから、前川國男は出発した。日本と日本建築界は当時の先進地域と同水準の技術的な土台、経済的下部構造または生産の社会的諸条件を備えるべきであり、もしそれが先行あるいは並行して実現されなければ、日本の近代建築は見せかけだけの偽物にとどまるしかないであろうと、前川は考えた。

第二次世界大戦中・直後の資材統制が終わった1950年代に前川は「日本相互銀行本店」をはじめとする諸作品によって「テクニカル・アプローチ」の範を示し、日本における近代建築の技術的諸課題の克服に直接的かつ間接的に寄与した。

しかしその設計作品は、初期および中期においてさえ、均等ラーメン構造、工業化、機能主義等によって特徴付けられる(いわゆる国際様式の)単なる近代建築というよりは、「光の下で組み合わされた諸々のヴォリュームの巧緻精確で壮麗な遊戯」(ル・コルビュジエ)とみなすことができ、人間的な尺度と民俗的または土着的な温かみを兼備している。

1960年代半ば以降、前川は産業社会とそれを支える合理主義のいくつかの側面にきわめて批判的になったが、近代運動の理想の最良の部分を最後まで放棄しなかった。何よりも強調するべきことは、前川はその生涯を通し建築家の職能と職業倫理の確立のために尽力したと言い得る[2]
経歴

1905年 (明治38年) - 新潟県新潟市中央区学校町通2番町に生まれ、東京に育つ。父・前川貫一内務省土木技師(勅任官[3]。母は旧弘前藩士の家系[4]。6歳下の弟前川春雄は後の日銀総裁

1918年 (大正7年) - 真砂小学校(現文京区立本郷小学校)卒業。

1922年 (大正11年) - 東京府立第一中学校四年修了。

1925年 (大正14年) - 第一高等学校理科甲類卒業。

1928年 (昭和3年) - 東京帝国大学工学部建築学科卒業(谷口吉郎と同年)、渡仏して首都パリへ行き、ル・コルビュジエのセーヴル通りの事務所に入所。シャルロット・ペリアン、アルフレッド・ロート、ホセ・ルイ・セルトと親交。ル・コルビュジエに弟子入りした初の日本人であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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