このページは過去の議論を保存している過去ログページです。編集しないでください。新たな議論や話題は、利用者‐会話:JapaneseAで行ってください。 昨年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにおいてMellkadiさんとの学位に関する編集合戦にて、問題解決にお力添えをいただいたものです(IPは変わってしまったようです)。このたび、ダラム大学にて「名門」や「有数の難関大学」との表記の是非、および「イングランドで三番目に古い大学」の記述方法についてHideyuki5さんと編集方針が対立してしまいました。以前のように編集合戦に至るのは本意ではないので、先ほどコミュニティーメンバーにコメント依頼にて客観的な意見をお願いしたところです。もしもお時間がおありなら、JapaneseAさんの客観的な意見をお聞かせください。お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いします。--118.237.8.204 2014年1月17日 (金) 18:31 (UTC)
コメントのお願い
こんにちは、Szk7788(会話)です。1年近く前の発言についての質問で恐縮ですが Wikipedia:コメント依頼/Moscow Connection 2013年2月28日 (木) 17:30 (UTV) の版
で、JapaneseAさんは『「国際公用語であるはずの英語で会話できない日本人は恥ずかしい(私も含めて)」という思いもあります。』と仰っていますが、この言いようですと英語が『世界唯一の国際公用語』であるかのような印象を受けますが、その根拠(何処の組織・機関がその様に定めているのか)をご教示下さい。また、こちらはJapaneseAさんご自身の個人的見解であろうとは思いますが、何故『英語で会話できない日本人は恥ずかしい』のでしょうか。
ご回答宜しくお願いします。--Szk7788(会話) 2014年1月17日 (金) 19:14 (UTC)両方ともあくまで個人的見解です。世界唯一かどうかはわかりませんが、事実上の公用語の1つと判断しています。全ての日本人は中学校で3年間、多くの日本人は高校で更に3年間、勉強する事になります。それなのに使いこなせないのは、恥ずべき事だと認識しています。一方、6年勉強しても、多くの人が「読めない書けない聞けない喋れない」が一般的だと思いますが。これは余談ですが、何かのDVDで娘。メンバーがアメリカに行った時、外国人のジュンジュンがある程度の会話ができていたと思います。他のメンバーに感心され、「日本人も6年間勉強しているのになぜしゃべれないのか?」と不思議がっていたのが印象的でした。--JapaneseA(会話) 2014年1月17日 (金) 23:26 (UTC)ご回答ありがとうございます。『世界唯一』とは思っていらっしゃらないのですね。その点については了承しました。では、次にお尋ねします。例えばJapaneseAさんが日本に在住であることを前提として、実生活上ご自分の生活圏内で外国人に、英語で話しかけられたらどの様にお思いになりますか。また、同様の条件の下外国人に何か注意すべき時には英語で注意するべきであると思いますか。ご回答宜しくお願いします。--Szk7788(会話) 2014年1月18日 (土) 04:40 (UTC)まず前提として、私は日本国在住の日本国籍人で日本民族で日本語話者です。御質問の「どの様に思うか」ですが、質問の意図を解釈すれば「困った、どうしよう。誰か英語に堪能な人、来てくれないかな」という事でなく「この国は残念ながら英語は通用しないんだよ。恥ずべきは日本人なのかもしれないけど、あなたの国では『日本では英語は通用しませんよ』って教えてくれなかったのかよ」です。2点目は英語で注意しますね、日本語で言っても通用しないでしょうから。これが英語でなく、国際的に公用語として認められていない言語であれば、また話は違ってきます。話かけられても「は?どこの国の言葉だよ?それがここ日本で通用すると思うのか?」となるでしょうね。--JapaneseA(会話) 2014年1月18日 (土) 04:58 (UTC) いつもお世話になっています。恋する惑星でもありがとうございました。余談からその後お書きになっておられたことにつきまして、提案が終了していたので参りました。イノセントの議論には反映させたくないDegueulasseのコメントしてお受け取りいただきますようよろしくお願いいたします。 知らない人が参加してよいのかについて、たとえばあのページで話題になっていたイノセントについてわたしは映画の社会的反響を何も知らないのでコメントできません。知らないことの議論では役に立たないですし、そんな人間の投票やコメントを一票一コメントとして扱う場合もあるでしょう。そのため参加できません。参加者が出した情報によって重みは異なることがあるので、Wikipedia上の方針にも同様の説明はあると思いますが方針を無視して事の性質を考えた時にその結果が役立つかどうかを踏まえますと、改名提案などでただの多数決を採用することはわたしは良くないと思っています。 削除依頼・改名提案・統合提案の場において、発言者・投票者が判断材料とした情報の深さ・質には個人差があります。中には軽すぎるコメントがあることも珍しくないでしょう。そのため単純な票数は判断の材料にできないように思います。投票を行なって多数決を採るよりも根拠が不明瞭や薄弱なコメントや投票を質して、根拠の確かな意見に集約を図る場合もあるのではないかと思います。物事を多数決で解決してしまうと数の力で押し通せてしまいます。多重アカウントの問題に無力です。数の力で決めるのは簡単ですが、それよりも調べて書くということがWikipediaの本義で、まず広く調べないと、次は高次情報源を深く調べないということになるでしょう。 改名や統合は削除依頼よりも目立ちにくく、提案から知らないうちにわずかな意見で改名・統合されていることもあります。恋するのように議論が進み、現代映画と現代音楽を比較対象にする現代の情報源(新聞)が取得可能でその時点の差が確認できるものは解決できる場合もありますが、少し古いものは難易度が上がります。2000年代以降の情報と比較した場合に1990年代以前の情報はインターネット上に残るものが少なくなります。その場合はネットに限定した比較が妥当な判断材料とならないですよね。ネットのGoogle検索よりも新聞検索・縮刷版は広くなり、論文や書籍を探すと判断材料にしやすいのではないかと思います。[[○○ (括弧つき)]]⇔[[○○]]の改名案件も、まずは参加者が調べ尽くして発言するということに尽きるのではないでしょうか。 そして最近は個人的に体調不良でWikipediaの更新も満足に行なえておらず、改名の議論で70年代の映画の影響を調べて議論の場に出して説明するとなると背景を相当調査しなければならず、それはかなり時間を要する作業になります。それにそれをわたしが調査しても、事情背景をよくご承知であろう頭痛さんや他の方がされた話には及ばないです。よってこのような場合は議論に参加せずにお任せしたほうがよいと考えています。 Wikipediaではその人の知識が深ければ、広い情報源を参考に記事に書いて示していると考えています。投稿記録を確認すればその人がそれまでに作成した新規項目を調べることができますし、十分な加筆を行なっていればメインページの強化記事などに選出された経験も他人が確認することができます。そのことによって記事を編集する能力の目安を量ることができます。その人の持っている情報源の質を確かめたければ、その人が以前に編集した記事に使った情報源の質を確かめれば大体の目安を知ることができます。ネットのGoogle検索よりも新聞検索・縮刷版は広くなり、論文や書籍を探すとさらに広くなります。 Wikipedia上の方針を駆使して他人に難癖を言って回るが、個人では満足に調べずネット上で薄く調べた情報を元に我の強い編集を繰り返し、自分の知らないことは差し戻して{{要出典}}を貼って回っている方が残念ながらいます。これは声の大きさは大きく他人を萎縮させるのに情報は薄く役立たないので、付き合いすぎても自分が時間を損しますし、放置しても犠牲が出ます。改名でも編集でも、全てが同じように解決する・解決すべきとは限らないと考えています。記事の主題が持つ背景は同種や類似するものもありますが、異なることが多く、機械的な判断は役に立ちません。それをすると悪平等ということになるのではないかと思います。改名でも背景まで細かく調べて判断するということは、記事を編集することと同じだと思います。上手に説明できていないかもしれませんがわたしはこのように考えています。イノセントには反映させませんが、JapaneseAさんのお役に立てれば幸いです。--Degueulasse(会話) 2014年1月28日 (火) 12:30 (UTC) 対米従属におきましてノートでの議論で、あなたは私の論議の質問(このページの協力者に対してなぜ具体的に責任をもって複数の問題とやらの各問題箇所なるものについて説明責任を果たさず、他人の説明や修正を無視曲解して、根拠のないテンプレートを貼り続けるのか?)とは内容的に全く無関係で、恣意的で、公平性を欠如した根拠のない侮辱と曲解を、私に対して行いました。
こんばんは
個人攻撃へのご注意 (一回目)