ドイツ国の政治家ルドルフ・ヘスRudolf Hes
親衛隊大将制服姿のヘス(1933年頃)
生年月日 (1894-04-26) 1894年4月26日
出生地 オスマン帝国
エジプト アレクサンドリア
没年月日 (1987-08-17) 1987年8月17日(93歳没)
死没地 西ドイツ
西ベルリンシュパンダウ区
出身校ミュンヘン大学
前職軍人
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
称号血盟勲章
配偶者イルゼ・プレール
サイン
国家社会主義ドイツ労働者党
副総統兼党官房長
在任期間1933年4月21日 - 1941年5月11日
国防閣僚会議
ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス(Rudolf Walter Richard Hes, 1894年4月26日 - 1987年8月17日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党副総統(総統代理、指導者代理とも訳される)、全国指導者。ヒトラー内閣副首相、無任所大臣。党内初の親衛隊名誉指導者であり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将[# 1]。
生涯
生い立ち父フリッツ・ヘス
ルドルフ・ヘスは1894年4月26日エジプトのアレクサンドリアでドイツ人貿易商ヨハン・フリッツ・ヘス (Johann Fritz Hes) の息子として生まれた。母はスイスの豪商・領事の娘クララ・ミュンヒ (Klara Munch) [1][2]。ヘス家の居間には皇帝ヴィルヘルム2世の肖像画が飾られ、皇帝の誕生日には本国と同様に祝う典型的なドイツ人家庭であった。弟に後に外国組織部(ドイツ語版)の指導者代理となるアルフレート(ドイツ語版)、妹にマルガレーテがいるが、弟アルフレートは精神障害者だった[3]。
アレキサンドリアのドイツ人学校に通うとともに家庭教師に学んだ。権威主義的で厳格な父の支配する家庭で、ヘスは神秘主義に魅かれやすい内向的な性格に育ち、瞑想の呼吸法を自分なりにアレンジするなど東洋的な思考法に染まっていった。1908年にはドイツ本国・ライン地方のバート・ゴーデスベルクにあるの寄宿制ギムナジウムに送られて青年期をそこで過ごしたが、学友からは「エジプト人」と呼ばれて馬鹿にされたという[4]。
ギムナジウムで3年過ごした後、父の希望でスイスの商業学校へ入学した。1年でここの学業を終え、ドイツ・ハンブルクで年期奉公した[5]。将来父の貿易商の家業を継ぐための修行であった[6]。 1914年8月に第一次世界大戦が始まると、父の反対を押しきって従軍を志願した。ヘスが父に逆らったのはこの時が初めてだった。ヘスはバイエルン王国軍第一歩兵連隊隷下の第一中隊に入営し[7]、西部戦線のイーペル戦に動員された。ついでソンムとアルトワの陣地に駐留した[8]。初めての戦場にヘスはかなり興奮したらしく、「村々が燃えていました。心を奪われるほど美しく。戦争よ!」と手紙に書きつづっている[9]。 1915年4月に兵長に昇進し、陣地防衛での勇戦が認められ、二級鉄十字章を授与された[8]。1915年夏に伍長に昇進した[9]。1916年2月から始まったヴェルダンの戦いに動員され、6月12日に榴弾の破片で両足と背に重傷を負った[10]。退院後の1916年12月に副曹長
第一次世界大戦
退院後の1918年春には志願していた航空隊への移籍が認められた。アウクスブルクの飛行学校に通った後、1918年11月1日付けでバイエルン第35戦闘機中隊 (Bayrsche Jagdstaffel 35) の戦闘機パイロットになった[12]。しかし空の英雄になるには時が遅かった。ヘスの初出撃のわずか数日後に大戦は終結し、一機も撃ち落とすことはなかった[13][12]。1918年12月13日に退役した[12]。
第一次世界大戦後