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フランス政治家Libman1225/sandboxMaximilien de Robespierre
マクシミリアン・ロベスピエール、1790年頃
生年月日1758年5月6日
出生地 フランス王国アラス
没年月日1794年7月28日
死没地 フランス共和国パリ
出身校リセ・ルイ=ル=グラン
パリ大学
前職弁護士
所属政党ジャコバン派山岳派(英語版)
サイン
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マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(: Maximilien Francois Marie Isidore de Robespierre, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)は、フランス革命期の政治家で、史上初のテロリスト恐怖政治家)・代表的な革命指導者。

左派の論客として頭角をあらわし、共和主義が勢力を増した8月10日事件から権勢を強め、1793年7月27日公安委員会に入ってからの約一年間はフランスの事実上の首班として活動した。当初は民衆と連帯した革命を構想していたが、ロベスピエールが希望していた国民公会からの完全な信任(独裁権)が、公安委員会の信任議決を得て、9月25日に認められてからは、公安委員会のリーダー[1]として、テロリズム(恐怖政治)に転じて粛清を断行したため、独裁者というイメージが定着している。
目次

1 概要

2 生涯

2.1 生い立ち

2.2 法曹界へ

2.3 フランス革命

2.3.1 革命初期

2.3.2 国王裁判

2.3.3 ジロンド派粛清

2.3.4 内憂外患


2.4 テルミドール反動


3 私生活

4 評価と批判

5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典


6 文献リスト

概要

マキシミリアン・ロベスピエールは、1758年フランス北部に位置するアルトワ州の地方都市アラスで、弁護士の家庭に生まれる。早くに母を亡くし、その後父が失踪するなど家庭環境の動揺に直面するが、勉学に励んで進学を果たす。1780年、奨学金を得てパリリセ・ルイ=ル=グラン学院を優秀な成績で卒業し、翌年1781年アラスで弁護士を開業した。

1789年、ロベスピエールはフランス革命直前に三部会が招集されると立候補して選挙に勝利、議員に選出されて再びパリへと旅立つ。まもなく発足した憲法制定国民議会では左派ジャコバン派に属して演説能力を高め、活躍を見せた。1791年には立法議会への現国民議会議員の立候補を禁止する提案を成立させた。国王一家が国外逃亡を図って失敗したヴァレンヌ事件を契機に、ジャコバン派から穏健派が脱退してフイヤン派を結成した時は立場を保持して少数派に留まった。

1792年、国民公会選挙でアラスからパリ市内の選挙区に変えて立候補してトップ当選を果たした。8月10日事件以後はジャコバン派の最左派山岳派を指導して政局を掌握し、1793年1月15日?1月19日ルイ16世を訴追した国王裁判や処刑を主導するなど活躍を見せた。また、フランス革命戦争での苦戦の責任を厳しく追及し、開戦を決断しながら戦局を打開できないジロンド派の粛清を展開した。

1793年7月27日にロベスピエールが公安委員会に選出されて以降は、革命政権の確立と自己の政治的・社会的理想の実現に邁進した。ジャン・ジャック・ルソーの思想に影響を受け、自由・平等・友愛といった理念に加えて公共の福祉を重視した。また、政治的には独立小生産者に属した一般市民や無産労働者を支持基盤として、プチブル民主主義共和国を理想とした。 対外戦争で敗北が相次ぐなかで戦争遂行を続けていくことに加え、ヴァンデ戦争といった内乱が生じたために国内の反革命勢力に対抗する必要が高まり、"テルール"(恐怖政治)と呼ばれたジャコバン派独裁が導入された。ジャコバン派内の反対派に対しても粛清がおこなわれ、ロベスピエールは大衆運動を重視して議会と対立する路線を選択したエベール派、新興資本家階級と提携しようとしたダントン派の指導者たちを革命裁判所を通じて次々と逮捕・処刑した。

1794年、ロベスピエールは非キリスト教化を主導して最高存在の祭典を挙行するなど、革命政府の中核的存在となった。しかし、容赦のない弾圧への反発が強まり、国民公会でのロベスピエールの立場は悪化し始めていく。7月27日テルミドール9日)、フーシェバラスタリアンら地方派遣議員は反対派を糾合して国民公会でロベスピエール派の逮捕を可決した。ロベスピエールは一旦逮捕されて監獄に送致されたが、監獄を出て市役所に赴き、国民衛兵と市民に蜂起を促した。しかし、国民公会が派遣した軍に包囲されて逮捕され、弟やサン・ジュストらと共に処刑された。

秩序と道徳を重んじて質素で堅実な生活を営んだため、市民に人気があり「清廉潔白な人」と称されたが、政敵からは非妥協的で人間的温かみが欠けた人物と評された。
生涯
生い立ち

フランス北部・アルトワアラス(現在のパ=ド=カレー県)生まれ。ロベスピエール家は貴族風に「ド・ロベスピエール」と名乗っていたが実際には第三身分に属しており、17世紀以来アルトワで多くの法律家を出した家柄で、1720年に祖父のマクシミリアンがアラスのアルトワ州最高評議会付き弁護士となってからはアラスに定住した。父フランソワも弁護士でアルトワ州の最高評議会の評議員だったがマクシミリアンは幼くして母を亡くし、父も身を持ち崩して失踪したため、わずか6歳で家長となり、奨学金を得てアラスのコレージュからパリのリセ・ルイ=ル=グランに学んだ。

学生時代は勉学のかたわらモンテスキュールソーなどの啓蒙思想家の著作を愛読していたが、特にルソーについては自ら訪問してその謦咳に接するほどの傾倒を示している。
法曹界へ

1780年、パリ大学に進み法学修士号と弁護士資格を取得[2]。1781年に卒業後、帰郷して弁護士を開業し、一時は司教区裁判所の判事も務める一方、1783年にはアラスのアカデミー会員、のち会長にも選出された。


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