利用者:Krkrkrme/sandbox/大和民族
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大和民族
紫式部織田信長徳川家康明治天皇
伊藤博文与謝野晶子湯川秀樹上皇明仁
武士・現代の一般的な家庭大和民族の一例
総人口
およそ1億2476万人[1]全世界人口の2%弱
居住地域
先住地
日本列島 日本
規模の大きな移民
アメリカ大陸 ブラジル アメリカ合衆国
言語
日本語
宗教
神道仏教
関連する民族
アイヌ琉球民族

大和民族(やまとみんぞく)は、日本語を母語とし、主として日本列島に居住し、日本列島の住民の殆どを占める民族である。ほとんどが日本語を母語とする。和人(わじん)とも呼ばれる。
概要「日本人」、「和人」、および「ヤマト王権」も参照
起源

大和民族は、縄文時代以前から日本列島に住んでいた人々のうち、弥生時代大和奈良盆地の南東部)を本拠地とする人々を中心に形成されたヤマト王権(大和朝廷)に属する民族の呼称である。ヤマト王権の勢力拡大に伴い、一地域名であった「大和」が日本を広く指す呼称となり、民族名ともなった。ただし、ヤマト王権の成立過程は現段階でも明らかになっておらず、謎も多い。

上古から古代にかけ、大和民族の形成当初は九州地方隼人(古くは熊襲)や、東北地方蝦夷が異民族と考えられていた。しかしこれらは平安時代までには平定され、大和民族と同化した。隼人が早くから大和に帰順し7 - 9世紀には朝廷に直接仕えていた(隼人司など)のとは対照的に、蝦夷は俘囚として防人や国衙軍に移配されたものも多い[2]

平安時代までには主要三島(本州四国九州)と周辺島嶼(隠岐佐渡対馬壱岐五島大隅諸島)がヤマト王権ないし大和朝廷に平定され支配下に入った。これに対し、この範囲を超えた辺境の地である蝦夷地北海道)、南島(南西諸島トカラ列島以南)は、朝廷および接する大和人からも異境、化外の地と見られていた。これが後述する民族意識の形成に影響を及ぼす事になる。
呼称

中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、邪馬臺國の親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」と表記されているが、晩以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本稿でも「邪馬台国」「やまとこく/やまたいこく」と表記する。古くは中国より「」と呼ばれ、大和民族も「倭人」と書いて「ワジン」と自称したり、また「倭」を「ヤマト」と訓じるなどしていたが、やがて「倭」の表記は廃れ、代わりに「大和」の表記が一般的となった。
「大和民族」観

前述のとおり、日本の古称が「やまと」「大和」であった。「大和」の内側では、前述の隼人や蝦夷の征服による同化のほか、律令制による令制国の施行、王朝国家への変遷や武家政権の台頭により。国や幕藩ごと固有のものや、歴史的な差異、強弱はあれど、ある程度共通性のある民族要素(地縁、母語、宗教、信仰など)が見られた。いっぽう辺境地帯では異なる歴史的過程が確認できる。

蝦夷地では、先史時代からオホーツク人と続縄文人が拮抗し、これに、大和による東北の蝦夷征討を受けて蝦夷が流入[3]擦文文化を形成した[4]10世紀に入るとアイヌが樺太から南下し先住文化を駆逐、千島を含む蝦夷地全土に活動範囲を広げた[5]。中世までのアイヌ文化はこのように擦文文化を継承しつつオホーツク文化と和人(シサム)の文化を取り入れて形成されたと考えられている[4]。中近世には徐々に和人が道南(渡島)に進出し、コシャマインの戦いシャクシャインの戦いクナシリ・メナシの戦いなどの大規模な戦争を経て和人の支配下に入る。近世江戸幕府幕藩は主としてアイヌと交易を行い、和人の植民は幕末まで道南に限られ、アイヌの民族習慣(風俗や生活慣習など)が直接的に変えられる事はなかったが、次第に松前藩領、幕末には天領としてアイヌは従属的な立場に置かれる。19世紀に入るとロシアの進出との関係から次第にアイヌの和人としての同化政策が始まる。決定的なのは明治維新後の北海道開拓使の設置であり、日本人としての完全な同化政策が強制的に進んだ。

南島(南西諸島トカラ列島以南)では、弥生時代以降、九州などとの間で貝殻と土器を交換交易する「貝の道」交易が盛んに行われた。中世のグスク時代には本格的な貿易的交易が始まり、


入る


考古学上

縄文式土器

中世のグスク時代に入るまで歴史学的考証のできる文物は発見されず、なかった。


中世以降歴史に登場するトカラ列島以南の南西諸島の領域や


琉球諸島の住民は中世に独自の王朝を築いた歴史を持ち、琉球処分により日清両属状態から完全に日本に併合された。現代でも文化的独自性を色濃く残している。


大和民族という言葉は、当時日本国民とされた台湾朝鮮半島樺太などの人々や、琉球やアイヌの人々を排除する意味合いを持ち、大日本帝国の支配的立場にいる民族を指す言葉として使われ、敗戦後はあまり使われなくなったとする意見がある。



日本列島の住民のうち、古代の大和朝廷や中世の武家政権の施政下にあった人のみを大和民族とし、近世に幕藩体制下に組み込まれた奄美群島および琉球諸島の住民を琉球民族と分類する考え方もあり、これらを総合して民族的日本人を指す場合は日本民族と呼称する場合もある。
生物学的考察

明治期における人類学的な区分では、坪井正五郎が先史時代の先住民であるコロボックルアイヌ(及び樺太アイヌ)、琉球民族朝鮮民族・台湾漢人、台湾原住民などを除いた集合を大和民族と主張していた。当時はそのほかに、日本人には上流階級に多い長州タイプ・庶民に多い薩摩タイプという人種的区分が存在するという指摘がエルヴィン・フォン・ベルツらからなされることもあった。戦前の国定地理教科書でも、大日本帝国を構成する民族として、「朝鮮人」「支那民族」「土人」「アイヌ」とともに「大和民族」が挙げられている[6]
父系Y染色体ハプログループの拡散大和民族に連なる東アジアのY染色体ハプログループと民族移動ミトコンドリアDNA(母系)の世界拡散を表す想定地図

Y染色体ハプログループ(父系)の研究では、日本人の中にはハプログループD1a2a (Y染色体)縄文人)とハプログループO1b2 (Y染色体)弥生人)が存在することが判明した。


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