利用者:HWTOF/中国の軍事史
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2020年7月11日 03:18 zh:中国?事史 より翻訳のため転記。

中国の軍事史では、中国の歴代王朝の戦争、特に歴史上重要だった民衆反乱や出来事について述べる。主に中国(華夏)と周辺の少数民族、北方の遊牧民族の衝突であるが、アヘン戦争以降は西洋列強の戦争などについても述べる。

ここでは、国家間の戦争や出来事、武器の発展など、軍事史について総合的に述べる。個々の戦闘・合戦については中国の戦闘一覧を参照されたし。ここで取り上げる戦争は中国の歴代王朝の戦争についてのみ取り上げる事に留意。また図表中での攻撃側・防衛側には、発起人や標的となった人物・国を記すため、全貌を示すものでない事に留意。中国の近接戦闘具の発展

中国では古来より戦闘が盛んであり、武具の発展も著しいものであった。中国では、黄河文明シルクロードを経由した鉄器の流入により長江四川両文明の優位に立ち、殷代の最盛期にはその範図は長江中流域に及んだ。周代には南方に楚国を始めとする諸国が立ち、秦の統一戦争によって、この時代の「中華」が統一された。

漢代には武帝西域進出によりシルクロードと密接になった中国では、交易が盛んとなりつつあった。しかしその後、漢は崩壊し、三国時代となった。この時代には名軍師として名高い諸葛亮孔明がで奮戦した。その後、屯田制を作ったから帝位を簒奪した西晋が中華を統一するも、八王の乱永嘉の乱により短命に終わり、華北には異民族が割拠した(魏晋南北朝時代)。

時代には様々な制度が整備され、唐はイスラム教徒のアッバース朝と西域を巡ってタラス河畔で激突するも、敗北した。この時に製紙法が西伝していることから、唐代には紙を使った厳格な組織的行動が行われていたことが分かる。しかし安史の乱が起き、中国は再び分裂期に入った。

宋代には武断統治が文治政治に変わり、地方で殆ど独立していた藩鎮勢力を弱体化させた。藩鎮とはそもそも辺境を守る節度使であり、帝権強化のために弱化して禁軍に編入したことが両宋滅亡の原因の1つともされる。その後の元は国内でのジャムチによる移動が可能となり、兵員や物資の効率的輸送が行えるようになった。また南宋で発明された火薬が実用化された。

明代には洪武帝などが北伐を行なったものの、異民族に対して基本的に守勢にあったため、万里の長城が築かれた。現存のもので観光地化されているのは明代のものである。明は満洲地方の女真人に対して兵器や人員の両面において圧倒的優位に立っていたが、李自成反乱により北京が陥落し、南明政権が立つも、山海関を開放した呉三桂と清の連合軍により滅んだ。

では八旗制が採られた。八旗には満洲八旗、蒙古八旗漢軍八旗があり、黎明期の清を支えたが、三藩の乱頃には貴族化しており、代わって緑営が主力となった。乾隆帝期に清は最大版図を実現し、十回の征服戦争全てに勝利したということで、「十全老人」と自称する程であった。しかし乾隆帝の譲位以後に政権を握った和?の苛烈な取り立てに反発した民衆らの白蓮教徒の乱頃には弱体化しており、郷勇がこれに代わった。しかしこの後も混乱は続き、華北の捻軍と江南の太平天国が清を脅かした。両者ともに鎮圧されるも、軍閥化した将軍の1人、袁世凱によって辛亥革命が成功し、清朝は滅亡した。

その後を引き継いだ中国国民党は、抗日戦争を2度の国共合作により乗り切るも、中国共産党に大陸の金門地区を除く全てを奪われた。その後、中華人民共和国は、第三世界の1つとして急激に発展し、インド洋・東南アジア地域への展開を進めている。
先秦詳細は「中国の青銅器」を参照指南車の模型青銅製のの穂先

先秦時代については、実在性が示せていないものが多く、諸説ある(疑古・信古を参照)。

古国時代においては、黄帝指南車という道具を用いて蚩尤の撹乱を無効化したとされる(?鹿の戦い)。この時代には既に青銅器が使用されていたとみられるが、鉄器は出土していない。伝説上では、弓矢を発明したのは黄帝であり、名手であった?にまつわる多くの話が知られている。

三代においては、二里頭文化圏以降、多くの青銅器が発見されている。では金属加工技術を独占する傾向があったとされ、この傾向は歴代王朝の弩の製造技術にも見受けられる。

またこの時代は、天体運動や八卦などに頼った戦が主流であったとされる。代表例が殷代によく用いられた亀卜による占いである。しかしその一方で兵器開発も進み、戟という武器が発明され、唐代まで用いられた[1]

先秦時代の戦争戦争名戦争年間攻撃側(君主名)防衛側(君主名)原因勝者結果・講和条件
夏商革命BC1449頃[注釈 1]子履夏后履癸孔甲以来の失徳、桀王の暴政攻撃側(商・湯王)夏から殷への易姓革命
殷周革命BC1046[2]周(姫発子受)帝辛の暴政攻撃側(周・姫発)殷から周への易姓革命
三監の乱BC1042?BC1039[3][4]子禄父)周(姫旦)周公旦の摂政就任[注釈 2]防衛側(周・姫旦)子禄父の処刑、殷領の衛宋分割。
対楚戦争BC965?BC957[3]姫瑕熊繹)姫瑕の南征政策防衛側(楚・熊繹)姫瑕の戦死
申侯の乱BC771申侯姫宮涅申后廃后、宜臼の廃太子攻撃側(申・申侯)姫宮涅殺害、鎬京陥落、周の東遷(西周の滅亡

春秋戦国時代

春秋戦国時代の時代区分については、諸説あるが、ここでは西周滅亡から三家分晋までを春秋時代(BC771?BC403、368年間)、三家分晋から秦朝成立までを戦国時代(BC403?BC221、182年間)とする。
春秋時代チャリオットの発祥地と伝播
紀元前2000年ごろシンタシュタ・ペトロフカ文化で発明され、急速に世界中へ広まった。春秋時代の兵車の図解

春秋時代の諸侯間戦争は兵車によるものであった。戦車と呼ぶこともあるが、現代戦車(Tank)との混同を避けるため、以降兵車で統一する。兵車戦は春秋時代の主な戦い方で、武霊王がBC307に胡服騎射を取り入れるまで、騎兵が用いられることは少なかったとされる。また兵車1台あたり、周では75人、では150人が付き従ったとされる[5]。また、兵車のみでは戦力にならないため、などの近接戦闘具が併用された。

また、春秋時代にはが発明されたとされる。弩に関する最初の文献的証拠は『孫子』であり[6]、また墨子によると春秋時代に開発されたのは弩や床弩といった、弓矢の発展形の類であったとされる。


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