利用者:Ami_du_Peuple/聖職者民事基本法
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議会の命令で聖職者に宣誓を強制しようとする様子を描いた風刺画(1791年)

聖職者民事基本法[1](せいしょくしゃみんじきほんほう、: Constitution civile du clerge, : Civil Constitution of the Clergy)は、フランス革命期の1790年7月12日立憲議会で議決され、同年12月26日に国王ルイ16世の裁可により発効した法律である。

フランス国内のカトリック教会を国家の管理下に置くものであったが[2]、これにより聖職者公務員の扱いとなり、教会ではなくて、人民によって選任される立場になった。しかし法[3]への宣誓を義務としたため、聖職者の大多数が聖書以外に誓いを立てることを拒否し、革命と宗教との対立に発展した。敬虔なカトリック教徒であった国王は困惑したが、王党派聖職者の助言を受けて裁可に同意する。ところがローマ教皇ピウス6世は公にこれを強く批判し、宣誓者を批判して異端宣告することすら示唆したため、波紋が広がり、宣誓拒否聖職者(宣誓忌避聖職者)と立憲派聖職者の対立は一般の信徒も巻き込んで深刻の度合いを増した。信仰の根強い地方では、宣誓拒否聖職者が王党派と協力して農民の反乱を扇動したため、ヴァンデの反乱の原因の一つとなり、反革命運動の根源ともなった。

本法は1794年に廃止されるが、ローマ・カトリック教会とのフランスとの敵対、およびフランス・カトリック教会内の分裂は、1801年7月16日ナポレオン体制における.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}コンコルダート(政教条約)で和解がもたらされるまで続いた。
背景1790年2月13日の聖職者の終身誓約と修道会の廃止をうけて自由を喜ぶ修道士[4]

第一身分たる聖職者は、1789年全国三部会では第三身分たる平民と協力して愛国的団結を示した。7月14日バスティーユ襲撃事件でフランス革命が勃発したときも、聖職者は革命の高揚感を共有した。しかし立憲議会がアンシャン・レジーム(旧体制)の解体に乗り出すと、絶対主義国家体制に密接に関与していたフランスのカトリック教会はいくつかの経済的打撃を被ることになった。

8月4日の封建的特権の廃止では、世俗領主でもあった教会も封建的諸権利を失った。しかしこれは補償が受けられる予定で聖職者の議員の多数が賛成した。例外とされたのは、ローマ教皇に収めるべき初収入税[5]などであった。十分の一税についてはすぐには結論が出せずに、1年ほど長く議論され、翌1790年8月11日になって無償廃止と決まった。これに対してアベ・シェイエスは法的平等にそぐわないと反対したが、ミラボーは教会の持つ公益性を盾にこれを退けた。

1789年11月2日の教会財産国有化令が最も大きな痛手であったが、率先したのも革命派の聖職者であった。オータン司教タレーラン=ペリゴールは、教会財産を「国民の自由処分にゆだねる」[6]ことを提案し、三部会召集の原因となった財政赤字の埋め合わせとするように主張した。ボワジュラン大司教[7]やモーリ枢機卿[8]は強奪に等しいとして反対したが、シェイエスやミラボーは、教会は財産の所有者ではなく、用益権[9]を保持していたに過ぎず、教会の公益事業は国家が引き継げばよいと主張して、採決の結果、346票対568票で可決された。

また議会は人権宣言の精神に則って、1790年2月13日、聖職者の終身誓約と修道団体の廃止(修道院の閉鎖)を宣言して、聖職者に職を辞める自由を与え、修道院を出たいものは自由に出て良いと許可した。一方で4月13日、カトリックが国教であると承認するように要望した動議は、信教の自由を名目に否決されたが、カトリックは唯一国家から補助金をもらえる宗教であることになった。国有化された教会財産の処分はしらばく宙に浮いたままであったが、タレーランの提案が改めて採用され、4月17日アッシニアという土地債券の形で売り出されることになった。これに伴い、すでに教会礼拝費と聖職者年金は予算に組み込まれていたが、細則が決まっていなかったので、聖職者をどう処遇するかを定義する法律が必要になった。

ところが議会や委員会で討論が進むうちに、そもそも国家あるいは議会が保持する世上権に、キリスト教の伝統に抵触するような教会組織の根本を改革する権限があるのかについて論争が起こった。反対の急先鋒であったボワジュランは、国家には宗教界を論じる資格はないと主張し、教会法(ここではカノン法の意味)の変更は宗教会議によってのみなされ、普遍教会の長の承認が必要であるとした。しかし推進派のトレヤール[10]はこれを一蹴し、旧体制の教会組織がいかに腐敗していたかを力説した上で、教会の管轄権は信徒の説喩と秘蹟の授与に限られるとしたフルーリーの学説を持ち出して、教会の管轄権は信仰教義にしか及ばない、法の介入による改革は宗教に本来の純粋さを取り戻すだろうと主張して大喝采を浴びた。


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