利用者:4th_protocol/ドナルド・ウィルズ・ダグラス・ジュニア
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中独合作のイメージ画

中独合作(ちゅうどくがっさく、: 中コ合作、: Chinesisch-Deutsche Kooperation、: Sino-German cooperation)とは、1910年代から1930年代にかけて、中華民国ドイツ国ドイツ帝国ヴァイマル共和政ナチス・ドイツ)との間で交わされた一連の軍事的・経済的協力関係を指す。独中合作とも。日中戦争直前の中国で、産業軍隊近代化に役立ち、ドイツは工業化がされていない中国と交易で潤った。

1912年に中華民国が成立した直後の中国では、軍閥が跋扈し、列強侵略に苛まれていたが、1928年北伐の完遂により、一応ながらも国内統一がなされた。しかし、その後満州事変などの日本大日本帝国)の進出により、「中華民国による国家統一」が脅かされるようになった。

そのような背景において、軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて、両国の蜜月関係は最高潮に達した。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)がドイツを支配するとさらに関係が強化されたが[1]、日独防共協定が締結されると関係は極端に弱められ、親日の汪兆銘政権を正式な中国の政府として認めた1941年に終焉を迎えた。中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果を発揮した。
中独合作前の中国とドイツの関係

初期の中国()‐ドイツ間の貿易は、シベリア経由の陸路を使っていたため、ロシア(ロシア帝国)政府により通過税がかけられていた。そのため、しだいに海上航路を使うようになっていった。始めて清を訪れたドイツ商船は、1750年代プロイセン王国のプロイセン王立アジア会社(Koniglich-Preusische Asiatische Compagnie)のものだという。アロー戦争で結ばされた1858年天津条約によって、プロイセンを含んだヨーロッパ各国と中国との貿易が活発化した。北洋軍閥の軍事演習

19世紀後半、中国貿易の主導権はイギリスが握っていた。そのため、プロイセン王国宰相のビスマルクは、イギリスに対抗できるような貿易機構を熱望した。1885年、ビスマルクは、清への直行汽船に補助金を出す法案を議会通過させた。同年、ビスマルクは清にドイツ第一銀行と産業調査団を送り込み、1890年にはドイツ・アジア銀行(徳華銀行(ドイツ語版))を設立する。これらの努力により、中国の1896年の貿易量はイギリスに次いで第2位となった。

この頃のドイツは、中国に対してイギリスやフランスのように露骨な帝国主義的態度を取っていなかったので、清国政府はドイツとの協力関係を基にして近代化を進めようと考えた。1880年代、ドイツのフルカン株式会社シュテッティン造船所は、後の日清戦争で活躍する北洋艦隊の旗艦定遠鎮遠を造船している。また1880年代後半、ドイツの兵器関連企業クルップは、旅順の要塞化に協力している。

日清戦争の敗北により、袁世凱はこれまでの洋務運動が間違っていたと考え、自強軍(Ziqiang J?n)、及び新建陸軍(X?njian Luj?n)建設のため、ドイツにさらなる支援を希望した。さらに軍備だけでなく、産業や技術面での支援も希望した。一方で、ドイツの対中国政策は1888年ヴィルヘルム2世が即位すると急変した。ヴィルヘルム2世は帝国主義的な政策を推進し、例えば日清戦争後の1897年、ドイツ人宣教師殺害を口実にして膠州湾に軍を出し、1898年に清朝に山東省膠州湾の99年間の租借を認めさせた。恐らく中独関係が最も冷え込んだのは1900年義和団の乱の際で、ドイツ公使を殺されたヴィルヘルム2世は怒って、遠征軍司令官に対して、反乱軍に対して「フン族の如く容赦ない攻撃を加えよ 」と命令した。(この事件を受けて、第一次世界大戦、第二次世界大戦のドイツ軍はしばしば「フン族」の蔑称で呼ばれた。[1]

この期間、ドイツは中国の法整備にも大きな影響を与えた。清朝が終わる数年前、中国の革命家はドイツ民法を基にした[2]民法草案の作成を始めた。ドイツ民法の骨子は、すでに日本でも採用されていた。この草案は、清朝崩壊前には施行されなかったが、1930年に中華民国民法として施行された。それは現在の台湾民法に引き継がれ、中華人民共和国の現行法にも影響を与えた。1985年に作られた中華人民共和国民法の原則は、ドイツ民法に基づいている[3]

ところが第一次世界大戦の前、中国とドイツの関係は一次的な停滞を見せた。その理由として、1902年日英同盟や、1907年の三国協商(イギリス、フランス、ロシア)により、ドイツが政治的に孤立したことが挙げられる。ドイツはそれに対抗して、1907年にドイツ、中国、アメリカの協商を模索したが、実現しなかった[2]1912年、ドイツは中国の革命政府(中華民国)に600万マルク(en)の資金を提供し、中国に山東省での鉄道敷設を許可した。第一次世界大戦開戦後、ドイツは中国の租借地が日本に渡らないよう膠州湾の返還を申し出たが、それが完了する前に日本は青島と膠州湾に攻撃を仕掛けた。ドイツは極東にまで手が回らず、これに対して何の動きも取れなかった。

1917年8月14日、中国はドイツに対して宣戦布告して漢口天津のドイツ租借地を回復し、そのほかのドイツ租借地の返還を約束させた。しかしながら、パリ講和会議での中国代表団の反対にも関わらず、ヴェルサイユ条約によってこれらの土地は日本に割譲されることが決まった。(中国ではこれを連合国側の裏切りと取る人が多く、後の五四運動へときっかけの一つとなった。)これらの動きにより、第一次世界大戦後の中国?ドイツ間貿易は大きな打撃を受け、1913年に300あったドイツ企業は、1919年には2にまで激減した[3]
1920年代の中独合作
ヴェルサイユ条約後のドイツ軍事産業の動向中独合作を進めたゼークト

ヴェルサイユ条約では、ドイツ軍は10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツの工業生産は大きく減少した。しかしドイツは軍事先進国として多くの製造会社が一流の軍用品生産技術を持っていたため、「外国に売るため」という条約制限の抜け穴をついて合法的な理由で、海外に合弁会社を設立し、そこで兵器を生産し、ソ連アルゼンチンなどに売却した。このような海外移転案を出したのが、ワイマール共和国国軍(Reichswehr)兵務局長に就任していたハンス・フォン・ゼークトである。ソ連とは1922年にラパッロ条約を締結し、翌1923年には秘密軍事協定を結び、ドイツはソ連の重工業や軍事教育を支援し、ソ連は武器製造などを分担する。なお、ドイツ軍はほかにも、歩兵監リッター・フォン・ミッテルベルガー中将がトルコで軍事指導を、ハンス・クントボリビア軍を指導し、パラグアイとのチャコ戦争において指揮をとるなどしていた。
中国とドイツの接近対独交渉の窓口となった朱家驊

袁世凱の死後、中国を支配していた北京政府は崩壊し、政権を狙う軍閥同士で内戦が始まった。そのため、ドイツの兵器メーカーは、中国に武器と軍事支援を提供する商権の拡大を画策した[4]

広州国民党政府もドイツの支援を求め、ドイツで教育を受けた朱家?1926年から1944年までのドイツとの交渉をほとんど一手に引き受けた。


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