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歴史
前史
人力車と乗合馬車の時代人力車。1897年撮影。千里軒の乗合馬車。3代広重『東京府下名所尽 京橋従煉瓦石之図』より

東京における都市交通の歴史は、明治3年(1870年)3月、町人の和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3名が人力車を発明し市中での営業を許可されたことに始まる[1]。人力車は従来の駕籠を置き換える形で急速に普及し、2年後の明治5年(1872年)には1万6000両に及び、明治20?30年代には4万台を越したが、1903年(明治36年)に都電の前身となる路面電車が開業した後は急速に衰退していった[1]

次いで登場したのが乗合馬車(通称:円太郎馬車)で、1874年(明治7年)8月に元皇宮御馬車掛の由良守応と豪商の伊藤八兵衛が「千里軒」の屋号で浅草雷門前新橋ステーション前間に英国から輸入した2階建て馬車を走らせたのがその嚆矢である[2]1881年(明治14年)2月の調査では、東京市内の乗合馬車営業者は75人124両を数え、そのほとんどは東京の目抜き通りである浅草・新橋間で営業していた[3]。営業者の大半は車両数1台ないし2台の零細業者で、そのためもあってか馬車は小型・粗末で乗り心地が悪く、ガタ馬車とあだ名された。また馬車馬には本来まとまな使役に耐えない老廃馬が酷使されており、当時の新聞にはガタ馬車の動物虐待を批判する投書がたびたび掲載され、中には訪日外国人によるものもあった[3]。そのため不平等条約改正にむけ欧化政策に取り組んでいた政府もガタ馬車を放置できなくなり、1889年(明治22年)10月に乗合馬車営業取締規則を公布して規制を強化した[4][5]。その結果、東京乗合馬車会社、共同乗合馬車会社、品川馬車会社など近代的な会社組織となることで生き残りを図るものもあったが、ほとんどの業者は新たな規制に適合できず廃業が相次ぎ、1906年(明治39年)には3業者が残るのみとなった[6][7]
東京馬車鉄道の開業東京名所 日本橋京橋之間鉄道馬車往復之図

以上のように明治初期の東京の都市交通は人力車と乗合馬車に頼っていたが、より大量輸送に適した交通機関として馬車鉄道を敷設しようという計画が持ち上がり、1880年(明治13年)2月、元薩摩藩士の谷元道之、種田誠一らによって新橋から日本橋本町上野浅草を経て再び本町に至る全長10マイル(約16km)の循環線敷設が出願された[8][9]。谷元らの出願は同年12月28日付で認可され、日本最初の私鉄[注釈 1]である東京馬車鉄道株式会社資本金30万円、本社芝区汐留町二丁目[10])が設立された。

馬車鉄道の営業は1882年(明治15年)年6月25日にまず新橋 - 日本橋間で開始され、残りの区間も同年10月1日までに順次開業していった[9]。当初こそ人力車夫たちの反対運動に見舞われたものの人口増加や上野・浅草への行楽輸送を背景に馬車鉄道の利用は拡大し、1901年(明治34年)度には年間乗客数4000万人、年間収入140万円に達した[9][11][12]。株式配当は最も少ない時期でも8分、1894年(明治27年)下半期以降は毎期3割5分の高配当をなしていた[9][12]

また1897年(明治30年)12月には品川八ツ山下 - 新橋間で営業していた品川馬車会社が馬車鉄道に転換して品川馬車鉄道株式会社が開業したが、1899年(明治32年)に東京馬車鉄道に吸収合併された[9][13]
電気鉄道への転換

[[File:Sprague train of Tokyodento.jpg|thumb|250px|東京電燈スプレーグ式電車東京電灯社長矢嶋作郎および同社技師長藤岡市助らが米国視察の折購入した、日本最初の電車である。]

文明開化の象徴だった馬車鉄道も、時が経つにつれて需要増加に対する輸送能力の飽和、蹄鉄によって破壊される道路の補修問題、糞尿の処理問題など都市交通機関として多くの課題が生じた[14][9]。そこで1880年代後半になると、馬車鉄道に代わる新たな近代的交通機関として電気鉄道(路面電車、かつては市街鉄道とも呼ばれた)を導入しようという動きが現れた。1889年(明治22年)に立川勇次郎らを中心とする京浜の実業家グループや、日本最初の電力会社である東京電灯を創立した大倉喜八郎藤岡市助らがそれぞれ東京市街地への路面電車敷設を計画したのがその嚆矢である[15][16]。時を同じくして大阪愛知三重などでも構想が持ち上がったが、当時の政府には電気鉄道について何らの方針も定まっておらず、結局これらの計画が実現することはなかった[注釈 2][9]。電気鉄道が新たな交通機関として評価を得るのは、翌1890年(明治23年)5月から東京電灯が第三回内国勧業博覧会の会場内で電車のデモ運転を行ってからである[16][9]

その後1893年(明治26年)頃から再燃し、同年から1899年(明治32年)までの6年間に電気鉄道33件、馬車鉄道35件、その他の鉄道10件と合計78件もの出願が相次いだ引用エラー: <ref> タグに対応する </ref> タグが不足していますでようやく妥結した[18]。買収案は7月9日に東京市会、7月24日に東京鉄道の臨時株主総会でそれぞれ承認され、こうして東京市内の路面電車は1911年8月1日から新設された東京市電気局が引き継ぎ東京市電が誕生した[18][19]



市電時代
大戦景気と市電黄金期

[[File:Tokyo special product crowded tram.jpg|thumb|大正時代の絵葉書。


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