凡例柴田 勝家
柴田勝家像(個人蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕大永2年(1522年)?
死没天正11年4月24日[1](1583年6月14日)
改名勝家、浄勝(号)[2]
別名通称:権六郎、権六
渾名:鬼柴田、かかれ柴田、瓶割り柴田
戒名摧鬼院殿台岳還道大居士
幡岳寺殿籌山勝公大居士
墓所福井県福井市柴田神社、西光寺
滋賀県高島市幡岳寺
和歌山県伊都郡高野町奥の院
官位従六位下・左京大進、従五位下・修理亮、
贈従三位
主君織田信秀→信勝→信長→秀信
氏族柴田氏(斯波氏庶流?)
父母父:柴田勝義?
兄弟姉(吉田次兵衛室)、姉(佐久間盛次室)、
勝家、妹(柴田勝敏母)
妻正室:お市の方(織田信長妹)
子勝里、勝忠
養子:勝春、勝政、勝豊、勝敏、佐久間勝之(後、佐々成政養子)、女(高城胤則室)[3]
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下社城址に立つ柴田勝家誕生地の碑(愛知県名古屋市名東区陸前町の明徳寺)
柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。 大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる(異説あり[4])。生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる[5]。 若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが信長継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。 天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、信行の兄・織田信長の排除を試みたが、弘治2年(1556年)8月に信長との戦いに敗れて、信長に降伏した(稲生の戦い)。この時は信長母の土田氏の強い願いで赦免され、信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田氏と礼を述べた。以後信長を認め、稲生の敗戦後、信行が新参の家臣の津々木蔵人を重用し、無念に思い、見限った。弘治4年(1558年)に信行が謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、信長は仮病を装い信行は11月2日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害された。[6]信行の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。 信行の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信行に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や、桶狭間の戦い、美濃斎藤氏攻めではもちいられなかった。1568年永禄11年の上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の武将として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。11月までは先方武将4人が京都の軍政を担当したが、幕府奉公衆に任せ、信長とともに岐阜に引き上げる。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本國寺の将軍・足利義昭襲撃(本圀寺の変)の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。永禄12年8月南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加する。 浅井長政が離反すると1570年元亀元年5月、六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶ったため、南岸確保に各城に6人の武将を配置するが、まず江南に4人が置かれ長光寺城 元亀2年(1571年)5月、石山本願寺に呼応した長島一向一揆を鎮圧に向かう。3隊に分けられかかるが困難で退却の際、勝家の隊は殿を務めたが、一揆勢が襲い掛かり傷を負い、勝家は旗指物まで奪われた。すぐ、氏家直元(卜全)が交代したが小勢であり対応できず、氏家と多くが戦死する[9]。 天正元年(1573年)2月、信長と将軍・義昭が対立して石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。だが信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する[10]。このため4月、信長出陣のもとに信長が、義昭への脅しのために上京を勝家も参加して配置して放火させ焼き払わせた。だがまたもや義昭は槙島城に立てこもるが勝家も加わった7万という総力戦で降伏させた。やがて義昭は追放され室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江国・摂津国など各地を転戦する。 1571年元亀2年5月に、2度目の長島攻めに参加している。長島の西方の呼応する敵城を勝家も参戦し桑名の西別所城
生涯
織田信秀時代
織田信勝時代
織田信長時代